2010年1月19日火曜日

0115ゼミの感想

ブログアップが遅れてしまい申し訳ありませんでした。

自分が持っている考え方・意見を、ひとに披露するときがくるまで熟成させる作業はすごく大切です。しかし、それらの意見を積極的にひとと共有することも同じくらい大切なんだな、と今回のゼミで感じました。

文章であれ口頭であれ、考えをひとに伝えること(すなわち自分の意見を社会に放つこと)によって自分の頭のなかでこねていたときには気付け得なかったような論理矛盾を発見することが出来ます。何故なら、論理性を持たない意見は、外に出た瞬間論破され、抹殺されてしまうから。

日常発せられるひとつひとつの発言が積み重なって社会のなかの“自分”が形成されます。
そう考えると、たった一言のささいな言葉にも重みが増し、責任感が生まれます。

願わくば、あらゆる事象に対して自分なりの意見のだいたいの(柔軟性に富んだ)フレームを常にいくつか持ち合わせているようになりたいな、と最近思います。

最後に、あまりこの内容には関係ない話ですが、先日KBSの方とお話していたときに、
「就職活動において、面接官はあなたたちがしてきたことには興味を持っていない。大事なことは、あなたがどのような目標設定をし、その目標がどのような思考から生まれたのか、その目標に対してどのように行動してきたのか、そして最後に、どのようにそれらの体験を語るのかだ。」とおっしゃっていて、まさしく思考力・行動力・伝達力だなあと思いました。

2010年1月18日月曜日

もやもやの季節。


 今までも何回かあった今後の話し合いでしたが、今回が一番エキサイティングでかつ体系的に具体的なところまで話せたのではないかと思います。


 議論を踏まえた上でもう一度、私見を述べます。


- 目的は手段に容易にすり替わる

 大目的、中目的、小目的と目的にはいくつか段階があります。大きくなればなるほど抽象的になり、組織にとっての大目的は「ビジョン」(ゼミ内では"ラスボス"と喩えました笑)であるのではないでしょうか。また中目的は大目的にとって手段に過ぎません。目的はより上の段階の目的にとっての手段になってしまうのでは?)


- このゼミのビジョンは「社会をより良くする人材を育てる」こと

 「社会をより良くする」とは付加価値を生むことであったり、概念・フレームワークであれば相手の一歩先を行き、意義を生むということです。

 社会をより良くする力は「創造力」と同義であると考えます。


 あとは以下の図ベースの考えです。


- 「創造力」を支える3つの力

 1. 思考力

 2. 伝達力

 3. 行動力


- 全ての起点:問題意識


- 全てをドライブさせるもの:当事者意識


- 問題意識・当事者意識を明確にする

 これは日々のプレゼンであれば某社よろしく「Objective」(プレゼンの目的)と「Expectation」(聴衆に期待すること)をはっきりさせるなどが必要であると考えます。

 

- 互いをリスペクトし合いながら協力、切磋琢磨する

 当事者意識を持ち、同じビジョンに向かって行動する、同じ目標に向かって行動することで、まとまりながら解決することが必要であると感じます。これは必ずしも必要とは限りませんが、必要な場合が圧倒的に多いように感じます。



 今一度立ち止まってビジョンの段階から目的を考えていき、具体的なゼミのコンテンツや運営方法について話し合うのはとても有益だと思います。とにかくこれから先5期を迎える上で、(結論はさておき)いい環境が整いつつあるように感じました。

【ホンヨミ!0115①】【大賀】

池谷考司編著「死刑でいいです」(2009年、共同通信社)

***

 これが実話だというのだから、恐い。犯罪者がいる社会に対する恐怖ではなく、「犯罪者を生み出してしまった社会」に恐怖を感じずにはいられない。大阪で起きた姉妹殺傷事件の犯人だった山崎元死刑囚。2009年夏に死刑が執行された。彼は最後までこう言っていた。「反省はしない。が、死刑にしてくれていい」
 彼は16歳で母親を殺していた。そうして入ることとなった少年院では「優等生」とされ、社会に復帰することを許された。しかし彼の中には、「普通のひととは違う何か」がずっと渦巻いていた。誰が彼を生み出したのか。彼はもともとそういう人間だったのか。それとも、彼の生まれ育った悲惨な環境か。母親か。父親か。義父か。隣近所か。知人か。-この本のもっとも恐ろしいことは、その最大の疑問が最後まで分からずじまいだと言うことだ。
 ただひとつだけ言えるのは。いわゆる「普通ではない子」というのは、この社会に存在しうるということ。彼らの存在を認めなければいけないということ。そして-精神に何らかの障害を抱えているとすれば、そのことを認め受け入れたうえで、力にならねばならないということ。

 「犯罪者を撲滅する」のではなく、「どうすれば犯罪者を生み出さずにすむのか」を考える。それが、今後の社会において必要とされることではないか。

社会とつながるゼミ

 こんばんは!おーがです。ブログアップが遅れてしまい申し訳ありません。

 今回のゼミは私にとって2010年初めてのゼミとのことで、ちょっぴりわくわくしながら参加しました。金光さん、田島さんを中心に4期生たちが真剣に話し合いを進めている姿に親心(?!)が芽生え心があったかくなりました。お疲れ様です!

 「ゼミ」について真剣に考える場というのは、ことです。でも、とても大事なことです。それを「面倒くさい」と思わずに真っ先に実践することができ、有意義な時間をすごしました。金ゼミはいよいよ5年目に突入。思考錯誤の期間は終わり、「金ゼミ」としての根っこが生えてきた時期です。5年って、冷静に考えればすごいです。0歳の子が小学校入学する年ですから!
 もうすぐ入ってくる5期生たちが、「金ゼミってこういうゼミなんだ」とわかるようなわかりやすくて的を得たコンセプトと、それに付随するような根っこの生えた活動ができるといいですね★

 ついつい老婆心(?)で色々と口を出してしまったかな、と今更ながら反省しております…。今度からは控えめに、もうすぐ4年生になるのだから、自分の発言には気を配ります!

ゼミの感想

来年度のコンセプトを決めるに当たり、思考力・伝達力・行動力・当事者意識・問題意識など、これまでのゼミで度々取り上げられてきたフレーズが沢山出てきました。これらがコンセプトの幹になるのは間違いないと思います。ですが、コンセプトとは、その周りにある全ての事象を支えるものであり、それが確固たるものであれば周囲の事象が間違った方向に行っても、そこに帰結することができるモノであると思うので、思考力などの言葉に負けることのない出来るだけ分かりやすい表現が必要になってくると思います。じっくり考えて、答えを焦らない、そのような姿勢が。

何かの本で、「本当に良いアイディアはその場にいる皆が盛り上がる。でも、そう簡単に皆が盛り上がる訳ではない。大事なのは、その反応を見逃さないこと。そこに企画を改善するヒントがるから。」って書いてあったのを覚えてます。

だからこそ、上手いこと話がまとまってきても、一人でも疑問に思う人がいれば、その人の意見を真摯に聞くことが重要だと考えます。前回の話し合いでは、自分自身、主体としての自分と、客体としての自分という、二人の自分を常に意識していました。主体の自分が「こうしたい」などと思っても、常に客体の自分が、主体の自分に対して、そのような発言をすることが適切なのかを問いかけてくるという様な感じで。この時、意識していたことは、主体としての自分がどうしたいかよりも、客体としての自分から洞察された主体としての自分が、どのように行動するかが・発言するかが全体の利益(話の流れの効率化)に繋がるか、でした。そのため、あまり自分の意見を発言するというよりも、割と受け身に回っていた気がします。そのことが必ずしも悪いことだとは思いませんが、それに終始することなく、話を振られたら常に自分の意見を表明出来るようにありたいと思いました。

2010年1月17日日曜日

ゼミの感想

みんなで来年のゼミのコンセプトを考えようという部分、とても困難な作業でしたがとてもワクワクしました。
今まで自分がなんらかのコンセプトに関われるという経験がなかったからです。
コンセプトはどこか別の場所で数人が考えているもの、伝統というしがらみもあるし、それは自分たちには閉ざされているもののように感じていました。「自分で好きに変えていい」これを許容する空気が金ゼミの素晴らしい部分だと私は思います。

全ての仕掛けを繋げるコンセプトの部分、ゼミ生みんなが合意に至れるように決めたいなと思います。
自分のゼミのコンセプトを自分で決めること、それが当事者意識の形成にもつながっていくような気がします。

2010年1月16日土曜日

金ゼミってなんやねん!!

   ゼミってなんやねん!

と戸高さんのブログにあった通り、まさに「ゼミってなんやねん!」
もっと言うなら、「金ゼミってなんやねん!」について考えるゼミでした。

学問的な話はありませんでしたが、この3時間半が、これから先の一年間の活動を有意義にするための時間であったことは間違いありません。この手間とも思える時間を大切にすることで「当事者意識」が高まると思いました。残念ながら参加できなかった人は、続々と回っているMLを読んでください。

「当事者意識」はとても深い言葉だと思います。自分の成長のための惜しみない投資はもちろんですが、自分が所属する組織、広く言えば社会、に対して所属しているだけの責任は持つべきだと思います。「責任ある自由」の中の、自由だけをクローズアップしすぎるのではなく、「責任あっての自由」だと思います。時にはそのために自分の思うような道にならないかもしれませんが、自分だけではなく、周囲に与える影響を考えられる人であることも大切ではないかなと思います。

多人数で話し合いの際には、一人ひとりが個人として目指す形が違うので、合意形成がとても難しいです。さらに今回は、今年度一年の総括を行ったうえでの次への目標設定だったので、どの話にどれほどの時間を使うのか、どれにも時間をかけたいだけに難しいところでした。

方法としては、模造紙に、項目ごとに縦にプラスマイナスを並べたのは、とても見やすかったです。それぞれの意見が数としても見えるのでぱっと見はグラフのように見えます。

目標を動かすのではなく手段を柔軟に変える。
どうしても、目標について話していると、今の手段のままでは難しいから目標を変えよう、というふうに考えてしまいがちでした。そうではなくて、目標を決めることには妥協をせずに、それに合わせて手段を変えていくこと、大きいものを決めてから小さい段階を決めること、これは結構単純な法則だけれどキーかもしれないと思いました。というわけで、今回のコンセプト決定ができたら、次はいよいよ詳しい一年間コンテンツ予定を決めたいと思っているのでよろしくお願いします。

0115ゼミの感想

お疲れさまでした。
個人的に、とても楽しかったです。いろんな意見が聞けたし、それを集約していく作業が論文まとめ期を彷彿とさせたので。

最近、とても話を聞いて議論を進めていくのが上手だと思う人に会いました。
話を聞くだけではなく、図示して、自分なりの見解を絡めていて、とても話しやすかったです。
そんな人に自分もなりたいと思っていたのですが、今回ひとつのコンセプトを決めるに当たって、岸本さんの進め方、戸高さんの発言の仕方が勉強になりました。
図に落とし込むのはわかりやすくて、今後どんどんやっていけるようになろうと思います。

最終的に浮かび上がったコンセプトは、社会を飲み込む力、創造力をつけるゼミ、ということ。
だいぶ大きく出たと思うし、今の自分にこれが出来るとは到底言えない。
でもヴィジョンとして、大きい目標を持つことは大事なのではないかと思います。そのための手段として、思考力−行動力−伝達力−問題意識−当事者意識−知識の深さ、を設定しているのも上手く段階づけられたのではないでしょうか。
ここから要になってくるのは、この6つの力を個人が磨いていくこと、ゼミ内で磨くことが出来る環境作りを行っていくことだと思います。今出来ないことを出来るように、という思いが一番重要なのではないでしょうか。
そのためのスキルアップをどんどん進んでやることが出来る人間でありたいです。

あと、このコンセプトをスマートなフレーズに落とし込まなきゃですね。ブレイクスルーが欲しい!

今年度最後のゼミ

 今年度最後のゼミ。来年に向けたコンセプトについて話し合った。みんなそれぞれ足りないと思っていることや、改善すべきだと思っていることがある。ここがだめだと思うから、自分はかかわらない、手を引くのではなく、その意見を各々が反映させていくことで、ゼミは形づくられていくのだと思う。しかし、ある程度ゼミの方向性や、最低限のルールはすでに存在するわけであるから、どこまでその意見を反映させるべきなのか、が難しいし、考えるべき点だと思う。

 「社会を飲み込む力」=創造力をつけること、が大きな目標でありコンセプトになる、と自分は解釈しました。社会をに見込むとは、社会で解決済みの問題や、また権威ある人の主義主張に追従するのではなく、自分たちなりに新たな観点、切り口を見つけ出し、独自の意見を持つこと。こうすることにより何かを言われたときに、新しい価値をつけて言い返すことができる。そのためには、「行動力・伝達力・思考力」をきたえなければならない。それはゼミの普段の活動であるプレゼンや読書を通して個人が身につけていくものであり、またそこにグループワークや議論というゼミとして人が集まることで可能となる活動が加わることで鍛えられる。しかし、それを行うには原動力が必要だ。この原動力が「問題意識」だ。問題意識を持たなければ、何を議論すべきなのか、何を考えればいいにのか、何を伝えればいいのかもわからない。私は問題意識を持つことは、すごく難しいと思う。事実、私が1年間、ゼミで学んで、自分なりのしっかりした問題意識を持てたとは言えない。論文など通して思ったことは、やはり問題意識を持つためには知識や情報は本当に必要だと思った。今回の話し合いで、来年のゼミの内容をどうするべきかと考える際に、結構その辺を改善すべきではないかと思っている人が多かったと思う。(というか私はそう思う。)この1年間で、ゼミを通して本当に多くのことをやったと思うが、自分のなかでそれらを通して学べたことは割と断片化している。正直、もっとひとつのテーマについて深められたら、と思うことが多かった。確かに、やっていることはみな、「社会で未解決なこと」、「社会の新しい動き」、「思考力・行動力・伝達力」を高められるもの」、という点で一貫性はあったと思う。でも、やはり社会に出たときに、飲み込まれるのではなく、飲み込むための意見を示すには、もっと確固たるバックグラウンドが必要なのではないかと思った。それは、「社会で未解決なこと」、「社会の新しい動き」、「思考力・行動力・伝達力」を高められるもの」などのコンセプチュアルなことに加え、もう少し実質性がほしいと思った。言い換えれば、学問的な専門性。でもこれは別にこのゼミでやるべきことなのではなく、個人個人が学部ゼミなどでやるべきなのかな、とも思いますが、まだ自分なりに結論が出ません。
 今日ある授業で聞いた話なのですが、ある分野(学問)を究めた人は、その分野を通して理屈をこねたり結論づけたりすることができる。その分野を通して社会を見ることができるから。その分野が自分が社会を見る定規になる。
 要するに学生のうちに、経済、法律、憲法、など(割と専門的で確固たる分野?)を学んでおくと強いよ、ということらしいのですが、金ゼミにもこのような、社会を見る定規となるような分野をしっかり学ぶという要素も必要なのでは、と思っています。

 

【ホンヨミ!0115①】未来への手紙【斉藤】

 未来への手紙 『未来の自分に、手紙を書こう。』プロジェクト編

 本書は、全国から集まった2万5322通の「未来の自分」に向けて書かれた手紙の中から選ばれた100通を本にしたものだ。未来に向けた手紙のアンソロジー。この企画は、シンガーソングライターのアンジェラ・アキさんが10代の時に30歳の自分に向けて書いた手紙が届いた実体験を歌にした「手紙~拝啓 十五の君へ~」をもとに始まったものだ。全国に向けてテレビ、CM、雑誌、ポスター、ネットを通じて広報し、集まった手紙を、アンジェラ・アキさん、作家のあさのあつこさん、実業家の小笹芳央さんの3名の審査員が100通選んだ。

 手紙の中に書かれた内容は変わることがない。その時感じていたことがそのまま文章として残っている。情報が日々刻々と変わっていくのと同じように、自分が考えることも日々変化する。ツイッターやミクシーのボイス機能は、これら刻々と変化する自分の思いをその都度つぶやくことができる。そしてそのつぶやきは新しいものが出れば、時間の古いものはどんどん消えていく。情報だけでなく、人の考えもフロー化してきたことの表れだ。確かに今他人がどのようなことを考えているのか、をリアルタイムで知れることは人間関係において画期的な変化をもたらすと思う。一方で、自分に関してはある一時期の「考え」をストックしておくことも大切なのではないか、と思う。なぜならば、過去の自分から学ぶことも多いからだ。審査員の言葉の中に、「自分の最終的な味方は自分だ」という言葉があった。味方というか、結局考えるのは、自分であるから最終的には自分に頼るしかないということだ。そんなときに自分の考えの軌跡をたどることは重要だ。それも自分としっかり向き合っている時の考えをだ。紙と鉛筆を持てば、気軽につぶやくときよりも、なんとなくかしこまり、必然的に自分と向き合うことになる。そこが未だに紙のメディアに権威を感じる所以だと思う。
 書いて長いこと置いてあったものを読み返すと、その時の真剣さがひしひしと伝わってくる。手紙を書くということや、自分と真剣に向き合う機会が減ってしまった現在であるからこそ、このようなプロジェクトがあったのだと思う。一人ひとりが、このようなプロジェクトがなくても、書くこと、自分と向き合うことの重要性に気づき、実行することができるようになればいいと思う。

2010年1月15日金曜日

ゼミって何やねん!







 何事もまずはスピードがモットーです。4年になっても続けていけたらと思います、戸高です。

 ゼミって何やねん。まさしくそんなゼミでした。09年度のゼミは今日で終わりですが、今回のゼミは終わりではなく本当に10年度の始まりにつながるゼミだったと思います。

 ゼミって何やねんという問いはまさしくそこにいる人って何やねんという問いに変わってくると思います。
 
 今日で少しコンセプトは固まり始めたと思います。しかし、そこにいる人次第でコンセプトが変わってしまうこともあると思います。

 少し話がズレるんですが、上手いプレゼン(就職活動をする上でいろんな企業のを聞いていて)って、ちゃんと最初に今日のゴールを決めてるんですよね、前提として。今日はみんなにこういうことわかってもらうよーって言うことを先に示しておけば、聞き手は途中説明がわからなくなるとそこに戻ればいいし、話し手もそこを意識してそこだけをとりあえず伝えればいい。

 だからスタートとゴールをしっかりと共有しておけばいつもそこに戻ることができるので、そこだけはしっかりしておけば大丈夫だと思います。

 ゼミにいる人が迷った時に、盲目になった時に帰ってくることができるコンセプト。そういうものが作れたらいいですね。


p.s
 僕ができてなかったこと全部なんで、そこを改善しようとしてくれている4期生はすでに立派です。僕は反省して次の人生に活かしていかんといかん。

【ホンヨミ!0115①】物語 ラテンアメリカの歴史【田島】

物語 ラテンアメリカの歴史 増田義郎著

音楽から映画から伝わってくるラテンアメリカ地域の貧しさ。「その貧しさはどこからきたのだろう?」世界史を履修していない私はその素朴な疑問をスペイン語の先生にぶつけてみたところ、わかりやすいよとこの本を薦めて下さった。というわけで、インカ文明からスペインの侵略、アメリカ資本の流入までのラテンアメリカ史を概観するのに非常にわかりやすい本です。語り口が読みやすいです。

この本を読んで驚いたことは、アメリカ大陸は15世紀まで他の大陸と一切かかわりのない世界史の孤児でありながら、スペインの植民者が到着した際、ヨーロッパ人も賛美する非常に見事な都市を造り上げていたということだ。現在アメリカ大陸の主導権は完全に北アメリカが握っているが、大陸発見時はその逆で、アステカ帝国(現メキシコ)とインカ帝国(ペルー)が高度な文明を作り上げていた。なんと植民者が到着するまでそこには貨幣経済はなく、物品交換を行っていたそうである。しかしながらインカは20万人もの人口を抱える大都市であった。

現在はグローバル化が進み効率化のために、世界はどんどんひとつになろうとしている。しかしそれは一種の脆弱性を生むのではないだろうか。かつて世界から断絶していたラテンアメリカは、ヨーロッパ人の常識を覆す別の方法で発展を達成していた。グローバル化は世界から多様性を奪う。それは文化的損失のみならず、人間の思考を画一化してしまうことにはならないか。西洋とは異なる独自の価値観を形成することを阻害しないだろうか。

また、ラテンアメリカの植民地支配と搾取を見て、日本という国は植民地化の危機を迎えながらそれをプラスに変えた非常に稀有な国だと感じた。日本もまた第二のラテンアメリカとなる可能性を秘めていたのだが、海外の知識を貪欲に飲み込み独立を模索した、幕末から明治にかけての政治家の超人的な先見性、政治的感覚は特筆すべきものがあると思う。幕末の政治家たちについて知りたくなりました。(大賀さんご指南お願いします。)

先週のゼミの感想

論文執筆にかけた3ヵ月。

あっという間ではありましたが、とても密度の濃い充実した期間でした。そして執筆から3週間あまり、ようやく論文発表も終え、いまは何とも言えない気持ちです。

私にとって「クラウド」は、最後まで、分かったようで分からない、そんなまさに「雲」をつかむような事象でした。それでも、クラウドの右も左もわからない状態から、この時代・知的産業における一大変革に真っ向からぶつかり、独自の切り口からこの雲の深淵を垣間見ることができたのは、とても刺激的でかつ貴重な経験でした。

これまで何かを学ぶ時、そこには必ずと言っていいほど有識者による十分な分析と解が存在し、自分は常にフォロワーの位置にありました。しかし今回、クラウドという新しくかつ今も急速に進化し続ける事象に取り組んでみて、物事の大局を見、またそれについて自分の頭で考察する楽しさを知りました。今回発表で頂いたフィードバックも参考にさせて頂きつつ、残りの学生生活そして社会に出てからも、この感覚は大切にしていきたいと思います。

さいごに、この3ヵ月共にこの論文に励んだ仲間に、感謝と敬意を表したいです。この班のメンバーなしにこれほど楽しく愉快で、かつ有意義なひと時を送ることはできませんでした。メンバー一人一人から学ぶことも大変多く、一緒に活動させてもらえて本当によかったです。

心からどうもありがとう。

2010年1月14日木曜日

【ホンヨミ!0115①】アフォーダンス入門【栫井】

アフォーダンス入門/佐々木正人

時折耳にしても、全く理解出来ていなかった「アフォーダンス」という言葉。
せっかく「わからない単語」とわかっているのに、そのままにしておくのももったいないと思ったので、本を読んでみた。

アフォーダンスとは、簡単に言うと、環境が生き物に与えたり、用意したり、備えておいたりするものである。
生き物が何かしらの行為をするとき、そこには必ず行為を取り囲むものがある。
大気、地面、光、私は何かに触れていない状態では、「存在する」ことすら出来ない。たとえば、立つ、という行為は地面から与えられたものであるように。
私が生きている環境のあらゆるものは、私に何かしらをアフォードしている。私自身ですらそうと気づかないほどあっさりと、さりげなく、その存在意義を認識させている。

私 が何かを行うと、私は環境についての情報を得る。そして情報を活かして次の行為に活かす。当たり前のことだが、こうして私は環境と行為を結びつけていって いる。赤ちゃんの頃には出来なかったことが今簡単に出来てしまうのは、私が環境のアフォーダンスが持つ意味を理解して、自分の行為に取り込んでいるから だ。生きることは、環境の中に埋め込まれた意味を探り当てていくこととも言えるだろう。

アフォーダンスの意味は、明快なものばかりではない。

椅子が与えているのは、座ることだけだろうか。私は椅子の背もたれにコートを掛けるし、台にして電球を取り替えることもある。それもまたアフォーダンスなのである。

これらのアフォーダンスは、無意識に知っていても、普段意識することはない。発見するためには、よくよく環境と行為を観察することだ。ひょっとすると、当たり前の日常の中に思いがけないヒントが隠されているかもしれない。

【ホンヨミ!0115①】次に来るメディアは何か【戸高】

河内孝著『次に来るメディアは何か』

 授業の課題で読みました。よってレポート課題をそのまま転載しますが、文学部社会学専攻3年戸高功資のレポートです、これは(コピペ予防策)。


 「次ぎに来るメディア」とはなんだろうかと心躍らせながらページをめくっていったが、内容は少し期待はずれであった。
 そこに書かれていたのはジャーナリスト、津田大介氏によるイベント実況中継や、企業の新たな広告宣伝ツール、またそんなこと関係なしに140文字という、心地よい制限の中、相手の存在を既存のSNSのように深く意識をせず、自分の気の向くままにまさしく「つぶやく」ことができるメディアとして注目されている「twitter」。
 また放送というものが既存の権力であるテレビ局やラジオ局といったものが独占していたが、「ユーストリーム」や「ニコニコ動画」の生放送などによって、「YouTube」などで見られていた個人が動画を発信するということに、リアルタイム性が付加されてきている。
 こういったまさに今使われている、既存のテレビや新聞、出版といった古いメディアに変わる、まさに「新しいメディア」について書いてあるものだと思っていたのだが、がちがちの「メディア再編」論であるように感じた。
 しかし同時に私はメディアの再編論、特にメディアコングロマリットなどについては言葉を知っているだけでほとんど無知であったので大変勉強になった。
 たしかにメディアの再編についてはこれから考えていかねばならない問題だろう。先ほども述べたように、個人でも生放送がネット上で可能になってきた時代だからこそ、本著にも書いてあったような日本の古い形態のままである法体系を、デジタルに対応したものに変えなければならない。
 
 また、既存のメディアはネットを敵として捉えすぎるきらいがあると私は実感している。例えば動画共有サイトを見てみても、角川書店のように質の高い公式チャンネルを出しているコンテンツホルダーもいるが、多くのコンテンツホルダーは動画共有サイトへ広告目的の再生時間の短く、また質の低い動画を提供するか、そもそもネットへ進出していかないかのどちらかである。
 出版社も、電子書籍の登場にあわてふためいているのが現状だろう。新聞社も同じくだ。産經新聞ではi-Phoneで読者は無料で新聞が読めるようになっている。デジタルで本や新聞を読めるようになれば紙媒体としての価値はなくなるのだろうか。
 そんなことはないだろう。紙媒体はなくなることはないと私は思うし、出版不況とは言われているが、むしろかつての好況の状況にも持っていけるのではないかと私は考えている。
 例えば講談社のマンガ雑誌に「モーニング2」という青年向けの雑誌がある。この雑誌は実際ウェブで無料で雑誌の内容をそのまま公開するといった方法をとったのだが、それを行った時の売り上げが、それまでの売り上げよりも高かったのだ。
 その理由は、ネットに公開されるものと、実売される雑誌とでマンガの内容を少しかえ、間違い探し形式にしたり、また付録を付けて販売する等があるようだ。
 このように少しの工夫を行うだけで雑誌の売り上げを伸ばすことは可能なのだ。ネットを敵と見なすのではなく、ネットとの親和性を高めていくことによってまだまだ既存のメディアとしての雑誌にも生き残る道はいくらでも存在しているはずだ。

 またやはり全てのメディアにおいてtwitterを活用していくべきだろう。テレビにおいても、ドラマ番組やアニメでは劇中の登場人物のアカウントをとり、つぶやかせることで様々なキャンペーンを繰り広げることが可能である。
 よくtwitterにおけるジャーナリズムが議論になることもある。本書の中にも、新しいジャーナリズムを創造する上では、きちんと訓練された記者がいることを前提としている。しかし、twitterにおける「つぶやき」にジャーナリズムというものをあまり私は気にする必要はないのではないかと考える。
 現代社会に生きる人間はテレビ番組もリアルタイムで見ることはほとんどなく、HDレコーダーにためて暇のある時に見るといったスタイルである。そんなスタイルではテレビCMは見られることがない。またニュース等も新聞を読むのではなく、ネットで必要な情報のみを検索、またはRSSなどで手に入れる。まさに自分の欲しい情報のみを手に入れて、好きな時に見るといった時代なのだ。これはtwitterで自分がつぶやきを見たい人のみをフォローして情報を得るといったこともつながってくるだろう。
 しかし、このような状況だと、情報が多種多様に存在しており、まさに情報大洪水の状況である。そんな情報が溢れる時代だからこそ、既存のテレビ、出版、新聞といったメディアは主に2つの役割を担うことが重要となってくるだろう。
 1つは情報を消費者が得やすい形に編集するといった役割。これは今とそう変わらないが、その編集の役割に先ほどの「モーニング2」のような読者に楽しみを与えるような情報編集、まとめをおこなう必要がある。つまりは様々なキャンペーンをウェブと親和性を持たせて行うことが重要となってくるだろう。
 もう1つは情報監視の役割。言わば新聞が担ってきたのと同じだ。本書にも書いていたように、新聞が政治権力を監視しているからこそ秩序が守られる。この役割は絶対に失ってはいけない。

 以上までみてきたように、『次にくるメディア』、ここでいう次ぎにくるメディアはコングロマリットなメディア体系ではなく、言葉通りの意味のメディア、が来ても既存のメディアには役割がたくさんある。
 その役割をいかに消費者が楽しめるように果たすことができるか、消費者の期待を越えるように果たすことができるかといったことが重要となってくるだろう。

2010年1月13日水曜日

【ホンヨミ!0115①】生きるためにいちばん大切な食の話【金光】

『生きるためにいちばん大切な「食」の話』 柴田明夫

筆者は丸紅経済研究所長。「食」の統計的な話がわかりやすく書かれていた。現状分析が多く、最期に筆者の提言が書かれていた。コメ農家保護の政策は良いこと――と自分が丸暗記していたことも、他の面からみると、そうとも限らない。筆者はこの政策は過剰保護で、日本の米ももっと国外へ進出していくべきと言っていた。たとえば中国では実際に日本の米が高級ブランドとしてセレブ層に売れている。
著者は最後の提案でもコメをとりあえず作ったほうがいいとまとめていた。アメリカはトウモロコシからバイオエタノールを作るように、日本はコメからバイオエタノールを作るなど。主食のコメを燃料に使うのは抵抗があるけれど、日本の土壌で一番合った作物から燃料を作るのが一番効率がいいと考えたら合理的なのかもしれない。

私が一番気になったのは、食料廃棄。年間1100万トンもの廃棄が一般家庭から出ている。これは食糧援助を超える量だという。コンビニでバイトをしていると、まだ食べられるお弁当やパンなどが賞味期限を前に回収、廃棄に回される。向いのパン屋さんからは閉店後、ごみ袋いっぱいのパンがごみ捨て場に運ばれていた。モッタイナイ!という思いでいっぱいだった。個人営業のパン屋でバイトをしていた時は、いかにロスを減らすかが勝負なので閉店間際や翌日に値下げしてでもなんとか商品として出して元値を回収していた。作る量も調整して、電話予約を受けての販売も意外と多いことを知った。確かに値下げしたらイメージが下がる、ショーウィンドーを満たしておきたい、などの理由だあると思う。でもどうにか廃棄を減らせないか、これから考えていこうと思った。

2010年1月12日火曜日

ゼミの感想

 アップが大変遅れてしまいごめんなさい・・・

 論文を書くということは、意義のある提案を社会に向かってする、ということ。そういった意味で、自分の班の発表に対していただいた厳しい言葉の数々からもわかるように、自分たちの提言は不足があった、というより、そもそも論点が違ったのかと痛感した。その社会的な意義のある論点を探すためにはやっぱりもっともっと積極的にリサーチすればよかったのだし、リサーチした情報をそれこそしっかり分析して構造化するべきだったと思う。そうすることによってのみ、自分たちの仮説や意見をもつことができる。自分たちの論文はいわば現状分析。フィードバックいただいたようなことが、実際の問題点・論点だったのだと思う。それを自分たちで見つけていくべきなんだと思った。だからスタートラインにやっと立てた気がする。でも、こうしてスタートラインに立てる、ということはこの論文に取り組まなければ決してわからなかったことなので、この論文から得られたことは確実にあると思う。

 論文の社会的意義を問われる貴重な場だった。
 班やゼミ全体で内容を発表したり議論しているだけでは、まだまだ「内の目」なのだと感じた。
感想アップが遅れてしまい大変申し訳ありません;;

これほどまでに多くの社会人の方の前で発表する機会は初めてで、とても刺激になりました。
それだけに時間を終始しては意味がありませんが、自分たちのアウトプットにフィードバックを頂くことは非常に大事なことだと思います。ゼミの充実度にできるだけ支障をきたさない形で、今後も継続していきたいと思っています。
UST中継は毎週おこなってはどうでしょうか?中継を見てつぶやきを返してくださった方が多くいました。
私たちが研究していることは、毎日発展を続けるメディアコンテンツに関することであり、今現在社会で未解決なことです。それならば、その活動、研究成果は教室の中にのみとじこめるのでなく、常に社会に発信して、社会においての実現性を見るべきだと思います。私たちは、アイディアをすぐ試用できる恵まれた分野を研究しているともいえます。
提案してゼミのアカウントを作って以来、日に日にフォロワーやレスポンスが増えていく状況を心から嬉しく思っていました。最初はゼミの認知度をあげる程度のつもりでしたが、ゼミのコンテンツに大いに貢献できる存在になりつつあります。私たちのアウトプットからどんどんRTがつながって、「金ゼミ」が外部に対してもなんらかの存在を持っていると思います。

自分たちの論文に対しては特に厳しい意見が多く、悔しい思いをしました。提言部に対してのコメントがなく、論点がずれていたのだと感じました。中途半端に誉められるよりも、多くの改善点を残していると思いがんばりたいと思います。

全員の論文を見ていて感じたことは、現状分析型の論文が多すぎたことです、「あなた自身の問題意識はなにか?」今までゼミに抜け落ちていた非常に大事な視点だと思います。


私たちの活動を見てくださるかたがた全てに感謝をこめて。

2010年1月11日月曜日

0108ゼミの感想

“人間は大きなプレッシャーを経験する度にひとつ大きくなるものです。”

今回のゼミの前に金先生がおっしゃっていた言葉だ。

長い人生の中で(ポジティブな意味で)大きなプレッシャーを経験できる機会は少ない。その数少ない機会を幸運にも享受できたとき、どれだけ多くのことを吸収できるかが勝負だと思う。

果たして自分は、この好機にどれだけのことを学べるか。

そんなことを考えながら臨んだプレゼンでした。

大きなプレッシャーを伴う機会において特に、自分の予想範囲外のネガティブな事態が発生することが多々ある。優秀なバレリーナは本番の何倍もの回転数を繰り返し練習するという。

もし自分がこの先の人生で何かを失敗することがあるならばそれは、絶対的に自分の能力・努力不足に起因する。外部的要因を無理矢理探そうとしてはいけない。
失敗の確率を減らすためには、もっと自分自身に対して主体性をもつことが必要だ。

そんなことを学べたゼミでした。

日常起こる全ての出来事に対して何らかの自分なりの意味付けが出来るようになれば、圧倒的な成長につながるのではないか、そんなことを最近よく思います。

最後になりましたが、お忙しいなかお越し下さった方々、UstやTwitterで参加してくださった方々、本当にありがとうございました。

あの場の一員でいられた自分は本当に幸せ者だと思います。

ゼミの感想

非常に刺激的な時間でした。今回の論文で少し引っかかっていたのは、自分達の問題意識とテーマの関連性。具体的には、どうしてこの点に注目したかということ。それが最終的なものになるまでは長い期間ずっと右往左往していた感触があります。そして、やはりゲストの方にはその点の甘さは筒抜けだったようで、質疑の時にもご指摘いただきました。今回学んだこととして、常に自分の問題意識をハッキリさせること、そしてそれをありのまま自分の言葉で語ることが、説得力の大きな要素となるのではないかということです。

個人的にゲストの林さんに簡単にフィードバックをいただけたことも嬉しかったです。自分の視野が相当狭かったことも思わされました。

蛇足ですがUstreamで自分のプレゼンを後で確認できるのはとてもグッドアイデアかと思いました。



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2010年1月10日日曜日

0108ゼミの感想

美食倶楽部での研究活動が終わり、その成果を発表する機会だったわけですが、厳しい意見を多く頂きました。
現状分析は特にわざわざ共有する必要がないかと思い、提言を中心にプレゼンしたわけですが、思考と結論の甘さを痛感しました。
とはいえ、美食倶楽部の3人で論文を執筆することができたのは、自分にとってはプラスの経験とすることができたました。
この場を借りて、再度、2人に感謝を述べたいと思います。

ありがとうございました!!

ゲストの議論はその内容もさることながら、FBの仕方など参考になる部分も多く、勉強になりました。

アフター、居酒屋でのお話は面白く、やはり色々なバックグラウンドを持っている人の話を聞く機会を積極的に作っていこうとも思います。

ゼミの感想から少し離れますが、今年、自分からもっと動いていこうと思います。

刺激と吸収と前進

緊張と達成感があるゼミでした。
ゼミが終わった直後は不安と緊張がとけた解放感と、どーんと山のように突きつけられた反省点で頭がいっぱいでした。今は、楽しかった!という充実感とこれを次につなげたいなーという前向きな気持ちです。

たくさんのゲストが来てくださったこと。自分たちの発表にこれだけの人がわざわざ来てくださったことが素直にうれしかったです。 

 なぜこの題材をとりあげようと思ったの?
 どんな問題意識があったから?
 自分たちとしてはどうしていきたいの?
という視点。そしてそれを
 全体の流れをつなげて再構成すること。

今回ゼミ全体を通じて、いろんな人から頂いた指摘でした。現状提示で大部分を費やしてしまうプレゼンが多かったこと、それはわかっていたようでできていなかった、本質的なことでした。「あなたたち"自身"はOpen Gov.の現状をどう思いましたか?なぜそれを取り上げようと思ったのですか?」という質問に、とっさに言えたのはとても無難な答えでした。うまくまとめよう、繕おうとするのではなく、自分の言葉・視点を一番に思い出すこと。今これに身をもって気付くことができたのは良かったです。気付いて反省するだけじゃなくてこれから脱していくようなゼミの内容を作っていきます。

この内容はゼミの後の食事でお話ししていて整理して理解できました。ゼミで大きな衝撃として体と感覚で感じたものを、食事の時間に、言葉をたくさん交わしながら、自分の言葉に直して頭で理解した感じでした。


ゲストの方の質問のしかたは興味深かったです。もちろん知識量が圧倒的に違いますが切り口は真似したいです。また、司会をしていると、残りの質問時間に合わせて質問の重さも変えてくださるのも気付きました。

twitterのハッシュタグと、ustreamの中継も、外部の方にも利用していただけました。両方とも、即時性だけではなくあとから振り返ることができて、ゼミが終わっても自分たちの教材になる!と気付きました。


代表初仕事としては、それこそ、もっとこうすればよかった!と思うことがいっぱいありました。
論文の発表と同時に、当日までの段取りや進行もうまくできるか、とどきどきしていました。初仕事だからってゆるされるものじゃないし、ゼミ生にはちょっとしっかりした姿を見せたら、安心してくれるかなと思っていました。実際には来てくださった方々、ゼミ生、先生の温かい目があって無事終えられました。見ていた代表とやってみる代表は全然違いました。これから何度もそう思うと思います。不安や見られ方の心配なんかより「こうしたいんだ!これが伝えたいんだ!」という強い気持ちがあれば、立場も場も関係なく堂々といられるのかなと思います。戸高さんのような安定感が一年後の自分に備わっているのかわかりませんが、自覚と方向性を持っていきたいと思います。



USTREAMの映像
http://www.ustream.tv/channel/kimsemiust

ハッシュタグでのつぶやき
http://twitter.com/#search?q=%23kimsemi



ゼミが終わってすぐに書くものだったなと反省しています。なかなか文字が進みませんでした。

0108ゼミの感想

多くの著名な方々や社会でご活躍されている方々から、厳しい意見をもらえることはとても幸せなことだと思う。インプットばかりでアウトプットの機会が無いと感じていた人が多かったと思うが、社会から評価の目を向けられる、数少ない非常に有意義な時間だったのではないだろうか。社会から評価されることに対するプレシャーから自分自身すごく緊張していたため、プレゼン直前までガチガチだった。だが、いざ始まると、大人から見られることを楽しめている自分がいることを実感できた。是非、これからもこのような機会に接していきたい。また、ゲストのかた全員が、それぞれの論文に対しての見識を持っていること、かつ、それぞれの見識に質的な偏りがないことに終始驚かされた。

大変お忙しい中、来て下さったゲストスピーカーの皆さん、ありがとうございました。

0108ゼミの感想

ゼミ時間、そして食事会と、こんなに濃い時間を過ごせたことを幸せに思います。

ゲストの方々のお話を聞いていて、強く感じたのは、自分なりの視点を持つことの大切さでした。今、学生である自分が周囲の物事に対してどんな意見を持っているのか、食事会で同席させていただいた社会人の方に問われ、咄嗟に答えることが出来ずに悔しい思いをしました。物事を知って終わるのではなくて、自分なりに飲み込んで意見を持つこと。これをもっともっと心掛ける必要があると感じました。

また、今回のゼミでは、Twitterの実況中継に加えて、Ustreamも導入してみました。
Twitterでフィードバックいただいて、心に刺さるものが多くありました。外部の方の意見を聞くことが出来る貴重なチャンスを広げることが出来て、ゼミ生一同得られるものが何倍にもなったのではないでしょうか。
参加いただいたゲストの皆様、フィードバックをツイートしてくださった皆様に、心からお礼申し上げたいです。ありがとうございました!

長いようで短かった論文期間、本当に学ぶことが多くて、すごくすごく密度の濃い経験でした。
終わってしまった今、私自身を大きく伸ばしてくださった先輩方の立場に、もうすぐ自分が立たねばならないことを実感し始めました。果たして私は、先輩方のようなパフォーマンを出来るようになれるのか。不安はたくさんありますが、突っ走るしかないと思います。思考力、行動力、伝達力。広い視野を持てるように、勉強するしかない!と気持ちを引き締めました。

0108ゼミの感想

今回著名なゲスト方の前でプレゼンできたのはとても良い経験になった。
ゲストの方々からの質問はどれも深く分野横断的なものだったので、1つの現象だけを掘り下げていってもそれほど高い価値はないのだと感じた。

また、質問に自分なりの論理で対応したり、尖った意見を出す事ができなかったのが非常に残念でもあり、悔しくもあった。
このような機会は多くはないと思うので、じっくり反省して今後に活かしていきたい。
このような機会を与えてくれた金ゼミには本当に感謝したいし、とても幸せに思う。ゲストの皆さんありがとうございました。

なんだかすごかった

 少し反響があったので、論文プレゼンのハンドアウトの図を載せておきます。
 これがUGCサイトをより良くするための3つの行動指針です(Catalyst Codeの行動指針をベースにUGCの事例に基づいて作成しました)

 これがUGCサイトのビジネスモデルにおいて3つの行動が好循環をもたらすチャート図です。(ちなみにAmazon.comのこの図を基に作成しました)


 感想は後ほどアップします。


(2011.1.11 追記)
 
 以前KMDの伊藤穣一さんの授業がUstream配信されていて(良い意味で)「狂ってるなー」と思ったことがありましたが、まさか今回うちのゼミでUstreamをやってこんなに視聴者が増えるとは思いもよりませんでした。


 とにかく豪華メンツの中でのプレゼンは緊張もあったものの、今後に活きる良い経験だったと思います。ゼミの最中や打ち上げで何度も言われたことですが、やはり何らかの提言をプレゼンするときは、「結局自分が何をしたいのか」「社会はどうあるべきなのか」というビジョン、問題意識を明確にすべきだったなぁと思います。目的を伝えずして、手段だけを伝えても聞き手はどう修正、フィードバックすればいいのかが分からないでしょう。


 また、クックパッドの佐野さんの話が興味深かったです。


 この国で最悪のパターンを想定してみたら、(法を守っている限りは)死ぬこともないし、借金を背負うこともないと。そして起業しようと思うなら、出来るだけ早く、今すぐにでも起業したほうがいい。そしたら、絶対失敗するから(笑)


 こんな旨のことを仰っていましたが、2文目は当時のSFCのトップにいた人に言われたそうです。


 また、起業するなら「本当にやりたいこと」「世界で一番になれること」「儲かること」の3つを兼ね備えることが大事だそうです。これは「20歳の時に知っておきたかったこと」でも述べられてました。


 他にもKMDの方々やMSの片山さん、NTTの林さんなど、年上の方々の話も印象に残りました。またその一方で自分たち学生の話を聞こうとする謙虚な姿勢が参考になりました。


 話は逸れますが、ジャズの「帝王」と称されるアーティストにマイルス・デイヴィスという人がいます。この人は生涯を通じて常にスタイルを変えていったイノベーターでした。彼の発言の中に「30歳を過ぎてクリエイティビティを保ちたかったら、若者とつるめ。」というものがあります。

 

 なんだか金曜の飲み会ではそんなことを意識してしまいました。ちょっとまとまりが無くなってしまいましたが、この辺で終わりにしたいと思います。


 最後に、貴重な時間を割いて参加してくださった、ゲストの皆さん、ustの向こうの皆さん、ゼミのみんなと先生に感謝です。

0108ゼミの感想

各界の第一線でご活躍なさっている大勢のゲストの方々の前で、極度のプレッシャーの中プレゼンテーションしたことは、自分にとって極めて贅沢で貴重な経験となりました。

特にAmazonの渡辺さんが御指摘くださった「どういう問題意識で研究テーマを設定しているのかという点がもっと厚くプレゼンされるべきだ」という点は、今後の学生生活全般において留意すべきポイントとして大切にしたいです。また、クラウドの内容自体に関しても、「単なるインターネットサービスとクラウドコンピューティングとの違いが伝わらなかった」などのような貴重で鋭いご意見を聞けた事は大変勉強となりました。

今回のオープンゼミを通して、ゼミ内部だけでなく実社会からの視点で成果物の評価・アドバイスを受ける事が、何かを学ぶ上でとても重要なプロセスであるということを実感できた気がします。

2010年1月8日金曜日

新鮮なオープンゼミ

 本日は2つ新鮮だった。

 1つは自分が代表じゃなく平になったのを実感したこと。金光代表を中心にすごく上手く回っていっているのを実感する反面、自分が何もしなくよくなったのがすごく寂しくも新鮮だった。
 正直まだまだ代表をしていたい気分は2010年になってもいっぱいです。
 やはり組織にいる上で、自分が組織を回していく立場はとてもおもしろく、魅力的なことだと去年1年間で実感した。
 苦しさよりも、そこで得るポジティブな感情の方が大きいし、むしろ今となっては苦しさとかも楽しい記憶として残っている。苦しさを伴わない楽しいことはほとんどないと思う。若いうちの苦労は勝手でもしろというが、まさにそうだろう。

 もう一つはやはり普段接することのないゲストの方々をお招きして、またもはや定番となった金ゼミ実況と、今回導入したust中継で外の目を意識するという新鮮さ。
 普段感じることのできない緊張感は、自分が発表するまでは重責ともなるが、まなざしを注がれている中自分が発表するのは楽しい。
 普段は少しつまらないと思うような時もある質疑応答の時間も、テレビの討論番組で見るような議論に展開していきそうで、本当に時間が惜しかった。もっと時間があればいいのにといつもながらキャンパスの閉館時間を恨んだ。
 これからも何かグループワークの成果発表がある時のみならず、ふだんのNCでもそのテーマに沿ったゲストの方々がいらしてくれたら、常にいつもより緊張感を抱いてゼミに望むことができ、楽しくなると思います。
 もっと外に広報していきたい。金ゼミtwitterがんばりましょう。
 めざせ、記事に取り上げられること。

【変更あり】【金正勲研究会】0108オープンゼミ【告知】

【オープンゼミのお知らせ】
今週金正勲研究会はオープンゼミを行ないます。

・日時:1/8(Fri.)1720-2000
【変更】開始時間が変更になりました。1700ではなく1720からの開始となります。お気をつけ下さい。

・場所:三田キャンパス 南別館622教室


・内容:2009年度三田祭論文の発表会を行なう予定です。
【変更】発表順に並べ替えました。一班質疑応答を含め30分弱の発表時間の予定です。

1、「ポイントエコノミーの現状と今後の展望」(トピック:ポイントエコノミー)

2、「日本における電子書籍出版ビジネス発展への提言」(トピック:電子書籍出版ビジネス)

3、「Cloud Age」(トピック:クラウドコンピューティング)

4、「Government進化論」(トピック:オープンガバメント)

5、「Reinventing UGC Site」(トピック:UGCサイト設計戦略)




の5班が各自の論文のプレゼンを行ないます。
論文はゼミHPの「ACTIVITIES」でDLが可能ですので是非ご参照下さい。

http://mwr.mediacom.keio.ac.jp/kim/


アンケートによるプレゼンコンペも予定しておりますので、メディアコム生のみならず、皆様の幅広いご参加をゼミ生一同お待ちしております。一般の方のご参加大歓迎です。途中入退場も可能ですのでお気軽にお越し下さい。

ゼミ相談会の時間も設ける予定ですので、新入所生の方々も是非どうぞ^^

2010年1月6日水曜日

今年の漢字(を考えて見えてくるもの)


 新年っぽく、ベタにおみくじの話題から。例年「末吉」ばかりと微妙な運勢ばかり出ていましたが、今年は珍しく「大吉」が出ました。(多分10年ぶりくらい?)割と人並みにいい結果の時だけ信じるという不届きものっぷりなのですが、今回のおみくじでは色々思うところがありました。

 

 願望:思いのままなり

 

 こう書かれていると、一見「これ最強じゃね?」とか思い、全能感を錯覚する感じですが、いざ「思いのまま」と言われると自分は何をすべきなのか、何がしたいのかと考えてしまいます。やりたいことだらけですが。

 

 「後悔のないように」と言うは易し、で多分何をやっても後悔というかより良くなり得た(かもしれない)別の選択肢を意識してしまうと思います。何かに集中することで盲目的になることも出来るのかもしれませんが、自分は少なくとも集中するだけでは無理なんじゃないかと思ってしまいます。

 社会的に影響を与えること、もっと具体的に言うと自分のアクションで人(の行動、気持ちetc)が変わること。ここまで達成してようやく、自分の中で後悔あるなしの審議があると考えています。

 

 そこで今年の一字は「果」にしようと思います。

 結果を求めて自分の役割を果たす。果敢に攻める。アウトプット中心にして結果を出すようにしたいと思います。(そうすることでやっと悔いが残るかどうか考えるので)


【ホンヨミ!0105④】系統樹思考の世界【岸本】


 筆者の専門である生物学をベースに、歴史学や哲学などを引きながら系統樹思考について説明した不思議な一冊。


 筆者は系統樹思考とは別の概念として「分類思考」を挙げています。これは物事の一時点の現象に着目して分類するものです。分類思考と系統樹思考の異なる点は、分類思考が一時点の現象に着目しているのに対して、系統樹思考では一時点の現象から歴史的な文脈を推測して、共通の「根」を推測するという点にあります。図で表すと以下の通りです。

 図の分類思考ではABCDはそれぞれ別の分類項目に見えます。しかし、系統樹思考を用いることで意外な繋がり(DとBが近い、など)を発見することが出来ます。

 この系統樹を発見するには筆者は演繹(induction)でも帰納(deduction)でもなく「アブダクション」が必要だとしています。手がかりから推測される仮説を導き、それが一番現象を説明するかどうかを確かめるという方法です。

 これはプロトタイピング、ひいてはデザイン思考に通じるものがあります。(ここら辺はKMDの奥出先生の著書やブログなどが非常に充実しています)

 学問というのは現象を研究しながらひたすら系統樹――それはプロトタイプともフレームワークとも言い換えられますが――をアブダクションによって作り上げ、その検証を行う(より多くの現象について適切に説明できているか)ことなのではないか、とこの本でなされている学問横断的(特にいわゆる理系科目)な議論を読んで感じました。

【ホンヨミ!0105③】ビジネスで失敗する人の10の法則【岸本】


 世の中に数多有る成功のノウハウ本とは真逆の、反面教師的な一冊。

 本書の著者であるコカコーラの元社長ドナルド・R・キーオはMBAなどとはほど遠い出自の人で、海軍に入隊後、一応大学は出たものの(哲学科)、地元のアナウンサーをやったり、食品会社に務めていたりしていました。

 この食品会社がたまたまコカコーラに買収されたためコカコーラに入社したというまさしく「傍流も傍流」な出自の人でした。

 法則は以下の通りです。(11項目あるのはご愛嬌)


  法則1(もっとも重要) リスクをとるのを止める

  法則2 柔軟性をなくす

  法則3 部下を遠ざける

  法則4 自分は無謬だと考える

  法則5 反則すれすれのところで戦う

  法則6 考えるのに時間を使わない

  法則7 専門家と外部コンサルタントを全面的に信頼する

  法則8 官僚組織を愛する

  法則9 一貫性のないメッセージを送る

  法則10 将来を恐れる

  法則11 仕事への熱意、人生への熱意を失う


 これをまとめるならば


  リスクをとる(1, 10)

   (リスクをとるために)

    - 会社をまとめる(9, 11)

    - 社内の意見を聞く(3, 6, 7)

    - 変化に対応する(2, 4, 8)

    - 対外的な信頼を得る(5)

 

 という感じでしょうか。反面教師から見ても導きだされる結論が似てくるということが興味深いです。世界の大企業はやはり理にかなってました。

 ただ、法則5についてはやや異論があって、行動によって社会全体のルール自体を変えていくGoogle的な方法論が(特にネット上では)有効なのではないかと思います。対外的な信頼を得ることが目的であって、反則かどうかは手段に過ぎません。信頼ベースであれば社会のルールすら変えることが出来るのではないでしょうか。

【ホンヨミ!0105③】バカの壁【村山】

印象に残ったのは、「わかる」ということに対する説明である。まず、「わかる」ということに関して、常識とは知識があるということではなく、当たり前のことを指すとある。つまり、常識は知識(雑学)とは異なるということだ。しかし、私たちは日常生活の中で、この「わかる」という言葉が持つ曖昧さを理解できていないのではないだろうか。例えば、サッカー観戦をするためにスタジアムに足を運んで試合を観戦すれば、試合は11対11で行われ、自陣に決められるゴールより多くの点を相手のゴールに決めれば勝ちというルールは知識として理解できると思う。しかし、実際の試合の中では、相手との心理的な駆け引きや、攻守における戦術の違い、仲間とのコミュニケーションなど、試合をパッと見ただけでは分からないようなことが行われている。つまり、「わかる」というのは、単なる表面的な知識を持っているということではなく、そのディティールを理解しているということなのである。こう考えると今まで分かっていると思っていたことも、実際には分かっていなかったという事柄が出てくるのではないだろうか。実際には分かっていなかったということに気づくのは悪いことではないと思う。むしろ、分かっていないことを「わかれた」ことの方が重要なのではないかと感た。
また、この「わかる」ということに共通了解を掛けている部分がある。共通了解は世間の全ての人が共通にしている了解事項のことである。そして、私たちは共通了解を求められている一方で、同時に個性も求められているという矛盾を紹介しているが、この部分は面白かった。ただ、この部分に関しても、全体に関しても「本当にそうなのかな」と思う箇所が多々あったため、完全に消化しきれなかったのが残念であった。

【ホンヨミ!0105②】森の食べ方【村山】

本書は、文化人類学者である筆者がボルネオ島のロングハウスに二年ほど住み込み、「フィールドワーク」を通してイバン(東南アジアはマレーシアのサラワク州で生活する民族)の人々の文化とそれを規定する根拠を解き明かそうとした作品になっている。イバンの人々の世界は、「ロングハウス」とその周辺につくられる焼き畑と、それを包む「森林」によって構成されている。彼らにとって、森は焼き畑地や野生の動植物を恵んでくれる資源としての自然として認識されていて、彼らは豊かな恵みを森から得るために、森と付き合う一定の仕方、つまり、文化をかたくなに遵守しようとしている。まさに自分たちの周りにある環境との共生を目指す原点の世界と言えるのではないだろうか。
そこで、ロングハウスについて考えていきたいと思う。ロングハウスとは、英語の文字通り「長い家」のことで、イバン語のルマフ・パンジャィを直訳したものである。全村人がこのロングハウスの中で暮らしており、ロングハウスには、そこに住む人々の関係性が内包されている。ここで言う人間関係とは、共住生活を営むことによる協力関係や共同コミュニティの形成、引いてはプライバシーへの配慮などである。ここで、私が注目したいのがプライバシーに関してである。ロングハウスのような共同生活では、村人みんなが一つ屋根の下で暮らしているため、個人のプライバシーがどのような形で保障されているのか疑問に思ったからだ。このとき注意したいのは、ここで指摘するプライバシーとは法的権利としてのプライバシーではなく、人々の日常生活における秘め事や恥じらいのあり方と、それに対する他者の関わり方についてである。つまり、言い換えると、ロングハウスでの生活における個人的領域とはどのようなものか、ということである。
また、イバンの人々の生活は自然の資源という名の森に支えられながら、共同生活を行う人々との持ちつ持たれつといった協力関係によって成り立っている。近代社会として発展を遂げたわれわれ日本人には彼らの生活を想像することは容易なことではないかもしれないが、彼らの生活形態を理解することは出来る。われわれに求められていることは、そんな他者、他民族の伝統や多様性を理解、尊重し、彼らのような人間と共生していくことなのではないだろうか。

【ホンヨミ!0105①】忘れられた日本人【村山】

本書は、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者が、文化を築き上げ、支えてきた伝承者、つまり、老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーを交えて生き生きと描いており、辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の表舞台に浮かび上がらせた作品となっている。
本書を読んで私が特に印象に残ったのは「対馬にて」における村の寄り合いの話である。
この章は、過去の文献を探し求めて各地を巡っている筆者が、対馬の伊奈という村を訪れ、この村に古くから伝えられている古文書を見せて欲しいと、老人に頼んでいる場面である。古文書を見せてもらうことは出来たものの、しばらくの間、この古文書を貸して欲しいと筆者がお願いすると、このような問題は村の寄り合いで皆の意見を聞く必要があるとして、寄り合いが行われる。なぜ、このような寄り合いという手段を取るのかと筆者がその理由を尋ねると、「村で何らかの取り決めを行う場合には、皆の納得のいくまで何日でも話し合う。初めには一同が集まって区長からの話を聞くと、それぞれの地域組で色々に話し合って、区長のところへその結論を持って行く。もし、折り合いがつかなければ、また自分のグループへ戻って話し合う。用事のある者は家へ帰ることもある。ただ、区長と総代は、聞き役、まとめ役としてここに留まらなければならない。」、という説明を受ける。この寄り合いでは、時間の経過を気にするということはない。実際に、筆者に関する議題も提示されたのは朝だったにも関らず、午後になっても結論には至っていないのである。これには理由があった。村人たちは、寄り合いの中で筆者に古文書を貸すかどうかについて議論している間に、それと関連のある話題に話を移し、さらにそれと関連のある話題に話を移すということを繰り返し、しばらくしてから再び古文書の話に戻るのだが、いつの間にか、またこれに関連のある話題に話が移るというようなことを繰り返すため、筆者に関する議論の結論を導くことに時間がかかったのである。このようにして見ると、大変のんびりしているように感じるが、少しずつではあるが、話はしっかり発展しているのだ。
このようにして、決して結論を急ぐことなく話し合い、関連する話題を語り合うなどを繰り返し、村落共同体の一員として、地位に関係なく皆が互角に意見を言い合い、村人全体の共通認識を作り、議論の解決策を模索していくのである。このことを上手く表現しているのが、「寄り合いの場で食事をしたり、寝たりなだして、結論が出るまで話し合いは続いた。三日でたいていの難しい話もかたがつくが、皆が納得のいくまで話し合った。だから、結論が出ると、それはしっかり守らなければならなかった。」、という部分だと思う。このような皆が納得するまで話し合うというやり方は、現代の多数決を原則とする民主的なやり方から考えると、とても「非効率的なやり方」に見えるかもしれないが、しかし、「皆が納得のいく結論を得ることが最重要課題」としているため、あえて時間をかけていると考えると、我々もこのやり方に納得できるのではないだろうか。というのも、このような村では農業、漁業を含めた日常生活を村の人々みんなで協力して行う必要があるため、地位が高い人間だけの意思を尊重したり、多数決で結論を得たりするより、時間をかけてでも、皆が納得する形で決着をつけることの方がより大事なことだったのではないだろうか。

これまで、「忘れられた日本人」と似た種類の本は今まで他に読んだことが無かったので、とても新鮮で自分の新しい興味の領域を開拓できた気持ちであった。これを機に、これからも社会人類学系統の本も積極的に読んでいきたいと思う。

【ホンヨミ!0105⑥】考えなしの行動?【戸高】

ジェーン・フルトン・スーリ著、森博嗣訳『考えなしの行動?』

 人間が何気なくとる行動に、私たちが住む生活を豊かに、また楽しく、そして幸せにするためのヒントが隠されている。

 両手が塞がっているとっさの時に、私たちは荷物を服のポケットにかけたりするときがある。本来ポケットの機能はものを支えるということではない。しかし、そういった機能が無意識のうちに人によって出されるのだ。
 ならば他のものを支えるための家具等に、ポケットのような収納機能もたしてみてはどうだろうか。こういった風に、人間の考えなしの行動を注意深く観察していくことで便利な世の中になっていく。

 また、考えなしの行動と少し関連して、人の心を少しあたたかくし、行動に促すデザインがあったのでそれを2つ紹介しよう。



 1つ目は野菜ジュースの紙パックをたたんで捨てた時に見えてくる1節。「たたんでくれてありがとう」
 パックをたたんで捨てる理由は僕は知りません(かさばらないとか、リサイクルに役立つとかの理由?)が、たたんで捨てることを推奨されていますよね。
 しかし、何の気なしにジュースを飲んで何の気なしに紙パックを捨てている人が多いと思います。つまり考えなしに、人は紙パックをたたむことなく捨てているのです(これはゴミ箱等を写真におさめてみたらすぐわかることです。自分の生活を振り返ってみても可。)。

 しかし、カゴメの野菜ジュースにはきちんとたたんで捨てると「ありがとう」の言葉が。これを1度知ってしまうと、どうしてもたたんで捨てたくなってしまうのは人の性だと思います。
 人は簡単に環境や人助けのためのなるのならば、貢献したいという思いは強いんだと思います。ミネラルウォーターのボルビックが「1ℓfor10ℓ」と題して、アフリカの子供達のために水を提供するキャンペーンを行っていた際、どの水を買おうかと思ってボルビックを手にした人は多かったのではないでしょうか。
 このように、考えなしに捨てられているゴミから、社会貢献にまでつなげることが可能となるのです。

 http://www.youtube.com/watch?v=2lXh2n0aPyw

 2つ目は、エスカレータと階段があって、どうすれば人は階段を利用するようになるのか。といった問題意識からきている。
 人は、急いでなくとも多くがエスカレータを利用する。速いし楽だからだろう。

 そんな考えなしにエスカレータの利用者が圧倒的に多いことを観察していると、じゃあどうすれば階段を使ってもらえるようになるのかといった問題意識が出てくる。
 その解決策として先ほどの動画が出てくる。階段をピアノのようにし、歩行者に楽しんでもらえるようデザインするのだ。
 これで本来、エスカレータよりも上るのに疲れ、苦しく、おもしろくなかった階段が、「楽しさ」という要素が追加されるだけで、歩行者の多くが階段を利用するようになった。
 こうすることで、例えば通勤ラッシュ時以外はエスカレータの電源をとめ、楽しく階段を利用してもらうようにすれば、電気代の節約にもなり、またエコにもつながる。

 人の考えなしの行動は、社会貢献、また楽しい体験につながる重要な行動である。
 そうした些細な行動に敏感になれる目と頭を常に持てるよう、意識して生きていきたい。

【ホンヨミ!0105⑥】そして、ひと粒のひかり【田島】

そして、ひと粒のひかり

ラテンアメリカのコロンビアにある花工場で働く若い女性マリアが、苦しい現状から脱出するため麻薬の運び屋となりアメリカへと渡る物語。本でしか知らなかった、コロンビアという国の、飢餓とまではいかないものの先進国に這い上がることが出来ない絶対的な貧しさの壁、経済的な閉塞感がマリアの生活を通して映像で伝わってくる。

現在南米から危険を冒してアメリカに渡る者、金のために麻薬密売など犯罪に手を染める者はあとをたたないという。そのままアメリカに定住するものは「ヒスパニック」と呼ばれ、アメリカで新たな経済圏を確立しつつある。人間は資本主義で本当に幸せになることができるのだろうか。資本主義のあるところに必ず貧困は発生し、より豊かな方向へ飽くなき移動は続いていく。人間の思想には多様性があることが望ましいが、市場が社会主義を飲み込んだように、資本主義は世界を巻き込み続ける。豊かさを指向して旅立つマリアの姿に、何か腑に落ちないものも感じてしまった。

子どもの頃は純粋にアメリカはすごいと思っていたけれども、ヒスパニックの問題や麻薬の問題などアメリカの様々な社会問題を見るにつけ、実はこの国は破綻しているのではないかとの疑念も持った。

【ホンヨミ!0105⑤】文化遺産の社会学【戸高】

小川伸彦、脇田健一、アンリ・ピエールジュディ、山泰幸著、荻野昌弘編『文化遺産の社会学』

 文化遺産と記憶に関する本。
 文化遺産といっても、それは仏像や遺跡といった、世界遺産や国宝のみをさすのではない。景観や、戦争の惨劇を表す負の遺産(それも原爆ドームなどだけではなく、焼け残った遺品なども)、さらに水俣病などの公害の爪痕を残す資料等もここでは文化遺産といっている。

 それでは文化遺産と記憶がどうつながってくるのか?それは文化遺産が博物館といった場所に、実際それがおかれていた文脈から切り取られて保存されることで、よりその場での体験での記憶と結びついて保存されるからだ。

 戦争だと、原爆が落ちた時の時間でとまった時計はその時に原爆が落ち、熱風が時計を狂わせ時間をその時のまま封印したといった事象を想起させる。
 このことは実際にその出来事を体験していない人にも当時の情景を想起させることを可能とする。記憶にその人が実際に体験しているか否かといったことは関係なさない場合もあるのだ。

 また記憶というものは不変のものではない。記憶はその都度、想起される場所や時によって再構成され違ってくる。
 記憶を想起するものはもちろん文化遺産にとどまらず、ただの街の風景であったり、音楽や味覚、また臭い等でも記憶は想起される。人間は五感の全てを用いて自分の身の回りにある体験を記憶しようとしているのだ。
 
 私は就職活動を初めて、さまざまな場所に足を運ぶようになった。就職活動は楽しい時もあるが、もちろんつらい時もある。そんな時、「前に友達とこの駅にきたなー。」「このビルは昔こんなことやったあの場所とめっちゃ近くてなんか思い出すからいやだなー。」とか昔を思い返しては懐かしみ、ちょっとした活力にしている自分がいる。
 その時想起している記憶、思い出は実際に昔体験したものとは違っている。記憶はその時の心境などにおいて変わってくるからだ。あくまでも記憶は再構成されるものであり、保存されるものではない。

 ちょっとした記憶でもその日を生きる活力になる。思い出はいつだってやさしい。1日1日、一瞬一瞬を大事に日々生きていきたい。

【ホンヨミ!0105⑤】サルバドールの朝【田島】

サルバドールの朝

フランコによるスペイン独裁体制時代を描いた作品。私は今までフランコ政権に対する知識が乏しく、スペインに対しても情熱と闘牛の国という文化面からの明るいイメージしか持っていなかった。しかし内戦からの歴史を知ると、スペインという国が抱えた闇と危うさを感じる。またこの作品の中には禁止されたカスティーリャ語を密かに話すシーンなどが描かれ、スペインの地域主義も感じることができた。

この映画は実話をもとにした作品であり、サルバドールというフランコ政権のもとで最後に死刑になった実在の青年を描いた物語である。サルバドールは反政府活動と、警官殺し(正当防衛に近い)の罪で死刑となる。実際警官たちともみ合ったシーンをみていると、ゲリラ側も警官側も同じ死者を出しているのに、警察側の罪は問われずサルバドールのみが死刑になることを素直に「おかしなことだなあ」と感じてしまった。このフランコ政権のような理不尽で抑圧的な国家や警察の姿を見ると、私たちは国家という権力の強大さを再認識する。現代は法律によって市民から武器を奪い無用な暴力を禁止している時代である。武器、つまり「力」という名前の「怪物」は警察という国家権力に集中している。「法律」とは現代において怪物を抑制し(市民)、また逆に怪物を開放できる(警察)魔法使いのようなものだなあと感じた。だからこそ、法律家は天秤でなければならないし、私たちは魔法使いが不公平なくちゃんとをしているか監視していかなければならない。

現在スペインではこの映画を始め、フランコ時代を再認識・再構成しようという試みが進んでいるらしい。現実が客観的な「歴史」になるには時間を要する。しかし、それを待っているだけでは現実の問題を解決することはできない。歴史を勉強することは、過去に陶酔することではなく、現在によりよく向き合うための方法とするべきだと思う。

2010年1月5日火曜日

【ホンヨミ!0105⑥】お伽草紙・新釈諸国噺【斉藤】

 お伽草紙・新釈諸国噺ー「浦島さん」/太宰治 

 現在国文学専攻の原典購読で、かの有名な御伽草子の浦島太郎を翻刻(変体仮名から現代の文字に直す)、現代語訳、鑑賞を行っている。もちろんこの作業では、当たり前であるが内容を楽しむわけではなく、変体仮名解読を目的としているのだが、同時に重要なのは鑑賞だ。御伽草子とは一体何かというと、室町時代中期から江戸時代中期にかけて流布したさまざまの物語の総称である。浦島太郎もその一つで、これは明治時代に入ると幼児向けの昔話化が始まる。私たちが幼いころに読んだ記憶のあるものは、実はこの明治以降のものだ。授業で扱ったのは室町時代から江戸時代に絵巻や絵本として存在したものだ。これは話の筋は明治以降のものと大方同じであるものの、多少異なる点がある。例えば明治以降の昔話化したものでは、浦島太郎が亀に連れられて竜宮城に行くことになっているが、それ以前のものは「蓬莱の世界」(不老不死の極楽のような場所)に行くことになっている。

 本書は、太宰治が御伽草子を独自の視点でパロディ化したものである。今回私が読んだのは浦島太郎のパロディである「浦島さん」だ。このパロディと、蓬莱の世界を舞台にした明治以前の浦島太郎を比較したい。まず、私が本書を選んだ理由としては、このパロディには太宰治自身の、当時の日本人に対する冷静な視点が垣間見え、それが当時のみならず現代の日本人思考にも共通する側面であると思ったからである。本パロディは、比較対象となる御伽草子の浦島太郎よりも、より日本的思考が反映されていると言える。そもそも蓬莱の世界とは、中国の伝説で、しかも不老不死とは中国伝来の思想である。御伽草子の浦島太郎では、やはり彼は蓬莱の地で知らぬ間に何百年もの月日を過ごし、人間界に戻って玉手箱の白い煙を浴びて、一気に年老いてしまう。その後、浦島太郎は長寿の神のような存在として祀られることになる。このように、御伽草子では長寿(それも果てしない)が限りなくめでたいものとされている。これは不老不死という中国伝来の価値観が反映されているのだろう。本パロディでは、まず主人公である浦島太郎は、自身の「風流さ」にある程度自信を持って生きており、俗世界の人間が互いにがやがやと罵り批評し合いながら生きていく様に軽蔑の念を持って生きているという設定になっている。そこへ亀がやってきて、浦島を竜宮へ連れて行く。この過程で亀との会話が多く描写されているのだが、その会話を通して亀は浦島の自惚れ心を痛烈に批判する。人間である限り、決して「俗性」からは離れることができない、と。それに対して竜宮には全く「俗」というものが存在しない。罵りも批判も、暑さも寒さも死さえ存在しない。浦島は最初こそこの環境を絶賛するが、徐々に批判や罵り、そして日々の生活に明け暮れる俗世界が恋しくなり、結局戻ってしまうのだ。このパロディでももちろん浦島は竜宮土産をもらい、その中の煙に対面することになる(この先は明確には記述がなかったが)。太宰治は、この結末について「年月は、人間の救いである。忘却は人間の救いである。」と記述している。物事が永遠に続かないことにより、人間は選択を迫られるし、全てが許されるということはない。そうであるから、互いを批判したり、競争が起こり、日常にかまけることになる。結局人間(日本人)の性格はこうである・・・という太宰治の諦念のようにも感じるが、このことは大いに現代の日本人の性格にも当てはまるのではないだろうか。何かに迫られているからこそ、より有意義な時間を、よりよい仕事を、より充実させた人生を、選択・獲得していくのに必死である。そしてまたその状態が心地よいのである。心の根底では不老不死などは欲していないのではないだろうか。

 私たちがこのような御伽草子を手に取る機会はもうない。しかし、幼いころに慣れ親しんだ昔話を今一度冷静な視点から俯瞰してみると、ある種のブラックユーモアのような、日本人の真意をつくような視点を得ることができる。その点でこのパロディはかなり読んでみる価値があると思う。

今年の抱負

去年は学びの年。新しく経済学部のゼミにも入り、ダブルゼミをすることになった。金ゼミでもコミットメントを求められ、その量にかわりなく。また、後輩も入ってきたので、初期は気を抜けない。自分のパフォーマンスが落ちてきていることもわかり、悔しかったこともある。
だけど、兎に角、前に進んできたと思う。そこでボロボロ露呈した弱点があり、自覚や指摘を通して確認してきた。直せたものもあるし、直せなかったものもある。
今年は確かめる年。自分のこれまでの行動を「確かめ」、今後の動き方を「確認」して、行動を「確固」たるものにする。
動き続けることに変りなく。

あと、ついでにもう一つの目標。オプティミスティックに考えると、思考停止に陥る可能性が高まるので、できるだけペシミスティックにも考えるようにしよう。

【ホンヨミ!0105④】荒巻の続々世界史の見取り図 近代アジア編【田島】

『名人の授業 荒巻の続々世界史の見取り図 近代アジア編』荒巻豊志著

「今ここ」を知ろうとすると必ず「過去」に直面する。現在は空中に浮かんでいるのではなく、過去の積み重ねの上に連続しているものである。金ゼミなどを通じて新しい出来事を研究しようとすればするほど、もっと歴史を知りたいという気持ちが湧いてくる。

本書は受験生向けに書かれた参考書であるが、受験生以外にとっても国際理解に大いに役に立つ本であると思う。非常にわかりやすく、イメージしやすいように書かれているため参考書は大学入学も十分お世話になることができる。本書の特徴は「見取り図」とあるように、実際の地理と関連付けながら歴史を見ていくことにある。単に歴史の本を読んでいるだけでは、地理的理解は欠けてしまいがちになるが、地理と歴史・国際関係とは密接に関係しており、より深く理解するために非常によい。

この巻は近代以後のアジア・アフリカの歴史を概略を辿っているが、先日本で勉強したラテンアメリカの歴史とも共通する要素が多くあり興味深かった。近代の植民地支配は植民地の自給自足経済を破壊し、一次産業の輸出国に落とし込めた。現代植民地は独立を達成したが、経済の観点からは未だ支配から脱することが出来ていないのではないか。先進国の下請け的作業を担う第三世界の国々は経済的に未だ脆弱だ。

また本書で印象的だった部分は、近代はヨーロッパが覇権を握っていたため「植民地を持つこと」が当たり前だった。しかし彼らから覇権を奪おうと「民族自決」の重要性を訴えたアメリカ・ソ連がWWⅡ以降覇権を手にすると「植民地を持たないこと」が当たり前となった、という部分だ。今我々が賛美している民主主義・資本主義、それは自分たちが選択したものというよりも覇権国が作り出したパラダイムに過ぎない。何百年後にはこのパラダイムも否定されている可能性があるわけで、そういう意味で私たちは「常識」を疑う必要があると思った。歴史を振り返ることを常に忘れず、自分の常識に対する客観視を常にもって行きたい。

【ホンヨミ!0105⑥】ご冗談でしょう、ファインマンさん【金光】

『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)(下)』R.P.ファインマン

1965年、ノーベル物理学賞を受賞したアメリカ物理学者のユーモアあふれる伝記。
彼がファインマンであった理由を私があげると、こうなる。
彼は
・お金より名声よりも、物理が好きだった
・理論ではなく、実際に使える物理が好きだった、そして人よりもできた
・常に好奇心が旺盛だった
・相手がだれでも物おじせずに物を言う人だった
・人を驚かせるのが好きで、負けず嫌いだった
・女好きだった

そして、その結果彼の周りには彼を助ける人がたくさんいたこと、はとても大きいと思う。
怖いもの知らずで目がきらきらした少年のようだけれど、頭の回転が速くて知識がとても豊富でユーモア大好きという印象を受けた。彼はあまりに高い報酬の仕事を、自分に合わないと断ったりもしている。また、相手がだれであれ物理の話になるとそんなことは忘れてずばずばと意見を述べる。そんな人柄だからこそ、上にもかわいがられ(もちろん当人はそんなことを狙っていない)良い環境で研究や勉強ができた。
もう一つ、彼は教育の仕事もとても好いていた。研究の傍ら学生を前にして講義を行うとき、試験の点数も素晴らしく、教科書の丸暗記には長けているのに同じことを実践的にして聞くと答えられない学生たちを目の当たりにして驚愕してしまう。彼は使える物理が好きで、そこにこそ面白さがあると思っていたから。そこで彼は質問することと自分の頭で考え手で実践することを口を酸っぱくして伝える。これは今の自分にもあてはまることだと思う。法律でも丸暗記ではなく自分の日常生活にも当てはめて考えることでぐんと面白く、理解も深まると思った。
彼は三回結婚し、それ以外にも女性が好きというエピソードは多数登場した。最近歴史上の偉人を読んでいて思うのは、偉人ほど女好きではないかという仮説。ゲバラやマンデラなど、日本と外国の違いもあるかもしれないが、離婚はそれほど珍しくないし、一度離婚してもまた他の人と、結婚に至るような恋愛をするんだなと思った。昨年の学部の授業で、教授がSTに「君、恋愛をしなさい」と言っていた。まだ検証が必要な仮説だが、恋愛は人生を豊かにするのかもしれないと思った。
ファインマンの魅力は実際に読んだほうが伝わるけれど、こんなふうに生きたいと素直に思えるような人物像だった。

【ホンヨミ!0105⑥】忘れられた日本人【栫井】

忘れられた日本人/宮本常一


戦前から戦後の高度経済成長期までにかけて、日本中をくまなく歩き、フィールドワークを続けた民俗学者、宮本常一の著書。
前期に学部の文化人類学の課題で読んだ本だが、再度人間観察という視点で読み直してみた。今叫ばれている消費者型のマーケティングは、消費者観察が肝となる。その元祖として、著者の人間観察の手法から何か学ぶことは出来ないだろうかと考えた。

宮本常一の研究は、実際に現地に赴き、人々に混じって生活し、人々の話を聞いて、肌で文化を感じて行われる。文献調査を主にし、「安楽椅子の人類学」と言われるフレイザーの金枝篇とは全く違う、実証的な文化研究である。
彼が話を聞くのは、その土地に住む老人たちである。隠居した老人たちは、半生の記憶を語り継ぐのが仕事だ。彼らの持つ記憶が、語り継がれて歴史となる。公式の文献には収まりきらないこのような歴史の形が、歴史の側面図であり、私たちの文化に根付いている。
たとえば、昔の村落には寄り合いという文化があった。日本史の教科書をめくれば、どんなものであったか、客観的な歴史的役割を知ることは出来る。しかし、それは文化を理解することではない。文化は人と密着して形成される。文化と人が切り離せないものならば、人を理解することなしに、文化は理解できない。著者も、寄り合いの現場に行き、輪に入って話を聞くことで寄り合いを語ることができたのだろう。

消費者を理解することは、その人の背景にある文化を理解することだ。
そのためには、宮本常一が行ったような密着した人間観察を行う必要がある。実際にその輪に入り、よく話を聞くことだ。宮本常一が老人に話を聞きに行ったように、企業は消費者に話を聞きに行かなければならない。今、そのためのツールはたくさん用意されている。「安楽椅子のマーケティング」になってしまわないように、自分の手足を使った調査が求められているのだ。

【ホンヨミ!0105⑥】悩む力【山本】

筆者が悩むことを肯定し、“とことん悩むことで何かが見えてくる”としていることに共感した。悩みは、大抵自分にとって望ましくないことに対するものが多い。そのため、私たちは悩むことを無意識に避けてしまう。しかし悩むという行為によって私たちはより成長することが出来る。

しかしここで、悩む内容が問題になってくると思う。
ただ闇雲に悩むだけでは成長することができない。
悩むことを選択する力も大切だと思った。

また、本書の自我に関する文がとても興味深かった。夏目漱石の『心』の先生などの自我が強いひとは、自我に捕われるあまり、他者との折り合いがつかなかったり自分の城に籠城してしまう。あるいは、“他者との関わりは表面的にしのぎ、本当の自分はかくしておく”ひとも多いと筆者はいう。しかし本当は、他者とのつながりの中でしか自我は成立しない。よって、自分の城を壊すべきと筆者は述べている。本当にそうだろうか、と思った。自分の城に籠城することによって、より確固たる自我を確立できるひともいるのではないかな、と思った。

また、この本を読んで、夏目漱石の作品を違う視点からみることが出来て良かった。また夏目作品を読み返そうと思うきっかけになった。

【ホンヨミ!0105⑤】感動する脳【山本】

著者によると、感動を生み出す意欲が人間の脳の大きな役割だとしている。
そしてその意欲とは“生きるうえで避けることができない不確実性への適応戦略”のことをいう。人間は、生きて行くうちに経験や知識が増えていくため、この不確実性が少なくなり、意欲がなくなってしまう。なので、意欲がなくならないために、私たちは日常の中に常に新しさを見つけなくてはならない。

アインシュタインの言葉で、『感度することをやめた人は、生きていないのと同じである。』というものがあるが、これは上記のように脳科学でも証明されていることなのだ。

私は、人生の中でたびたび遭遇する不確実性とは全くのマイナスであり、学生である私たちは、経験や勉強を通してこれらに慣れていかなければならないと今まで考えていた。
しかし、脳科学の見地から見ると、この不確実性こそが非常に重要であると知ってとても驚いた。

肝心なのは、不確実性に慣れることではなく、不確実性に遭遇したときの自分の捉え方にあるのかもしれない。

【ホンヨミ!0105④】現代宗教【山本】

中国では今、出家する人が後を絶たないそうだ。
経済発展著しい中国に於いて、現在その急速な社会の変化に着いて行けない人々が出家の道を選んでいるという。

1982年に中国共産党によって、宗教に対する政策の指針が示された。
自明のことだが、宗教と社会主義思想は対立するものだ。共産党は、マルクス主義の立場から最終的には宗教の消滅を目指すとしつつも、社会主義発展段階の過程で早急な宗教消滅は不可能とし、宗教の存在は認められるべき、としている。また、宗教信者への差別は認められないという政策も示している。

しかし、実際のところ中国で宗教に関する動乱は多い。チベット族のチベット仏教やウイグルのイスラム教など、中国における民族問題はほぼ常に宗教となにがしかの関係を持っている。

そもそも中国でこれほど宗教問題が取りざたされている背景には、中国の領土問題が深く関わっている。日本の報道でも、チベットの問題などが放送されるときは大抵、歴史が保証している中国領土に対する示唆の色が濃い。
そんな中、宗教自体にフォーカスしている本書はとても勉強になった。

【ホンヨミ!0105③】グループ・コーチング入門【山本】

現在、コーチングを管理職研修に取り入れる企業が増えている。
しかし、その内容が実際の業務に生かされることはとても少ないそうだ。つまり、個人の能力がアップしたところでそれが組織全体の業績改善につながらないのだ。それは何故か。

その理由は、コーチングが基本的に一対一のコミュニケーションに限定されてしまっていることだ。そこで、本書では管理職一人対部下複数で行うグループ・コーチングが提唱されている。

この本には、
・意見が出なくなってしまったとき
・一人だけ沈黙しているメンバーがいるとき
・盛り上がり過剰で収集がつかないとき
・論点がずれたとき

などに対する解決法が書かれており、学生である自分にも非常に参考になった。

【ホンヨミ!0105②】決算書の読み方【山本】

決算書の効率的な読み方を業種による特徴や違いなどをもとに紹介している本。

業種別に書かれているので、各業界を知る上でも非常に勉強になった。
例えば、食品系などもとても興味深かった。食品系が安定している企業が多い事は周知の事実だが、その反面時価総額は他業種に比べて非常に小さいそうだ。
業績や株価が景気動向に左右されにくいディフェンシブ銘柄である医薬品・電気・ガス系と比較して、上場している企業は医薬品の2倍、電気・ガスの4倍であるが、時価総額は医薬品の6割、電気・ガスの7割程度しかないそうだ。
また、同業者が多く競争が激しいため、食品銘柄の決算データは利益率が低いという特徴もある。

その他の業種にも知らないことが沢山あり、就職活動の前にもっと各業種について知るべきだと改めて感じた。

【ホンヨミ!0105①】手にとるように銀行がわかる本【山本】

現在、都市銀行再編の影響を各クレジットカード会社は大きく受けている。

他社とのサービス競争が激化し、ポイント制の導入やマイルサービスの付加などで費用負担が年々膨らみ、収益率が低下している。このことなどが原因となって、クレジットカード業界は再編が進んでいる。代表的なのは2009年にOMCカード・クオーク・セントラルファイナンスが経営統合し生まれたセディナなどだろう。

本書では、銀行の話だけでなく上記のようなクレジットカードの現状についても触れられている。クレジットカード会社の再編や電子マネーへの取り組みなど、色々な角度からクレジットカード会社について書かれていた。

もともと銀行やクレジットカード会社でのプライバシー情報対策について知りたくて手に取った本だったが、あまりそのことについて書かれていなかったので、他の本を探してみたい。

【ホンヨミ!0105③】深い河【田島】

「深い河」遠藤周作著

遠藤周作は好きな作家のうちの一人で、ひさしぶりに彼の小説を手にしてみた。
この「深い河」は彼の代表作の一つであるが、そのタイトルの通り、とてもおおいなるものを題材とした小説であると思う。しかし文体は非常に読みやすく、純文学特有のとっつきにくさが無くてよい。

この小説は「大津」というインドの神父の姿を通して、人間の愛というものを提起した小説であると思う。「神父」「愛」などと書くと鼻白む反応もあるだろうが、その反応を「美津子」が代行する。大津は『神は存在というより、働きです。』と語る。大津の言う愛の働きは、この作品の中で様々なキャラクターを通じて表現されている。磯部の妻、沼田の悲しみをすくいあげてくれた犬や鳥たち、木口を励ましたガストン、ヒンズー教のチャームンダー女神。キリスト教の家庭で育った大津は、「愛」への信頼を身近なキリスト教に置き換えたのである。作者は、人間は誰でも心のよりどころを求める弱い存在であり、それを宗教や家族、様々なものが包みこんで生きているのだということを伝えたかったのではないだろうか。宗教の種類にとらわれない愛の普遍性である。『それしか・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは。』という作中に登場するマザーテレサの尼たちの答えが胸に響いた。


現代世界では異なる宗教による対立が数多く起きている。この作品の大津のように、信仰を「実際的存在」から「働き」に置き換えて考えれば、自分の宗教も相手の宗教も少なからず同じ要素を有していることに気がつくだろう。美津子はガンジス河に入りこう呟いている。『信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の河の深い悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています。』この深い河のような大きな視野で捉えることが大切なのかなと感じた。

【ホンヨミ!0105②】ラテンアメリカ経済論【田島】

「ラテンアメリカ経済論」西島章次ら著

私は第二外国語でスペイン語を選択している。ラテンアメリカの映画や歌を授業で鑑賞する機会が多いのだが、そのどれにもラテンアメリカの「貧困」のムードが重低音のように流れていた。炭鉱等での過酷な労働に苦しむ人々、マス工場で低賃金で働く若者たち、危険を冒してアメリカに渡ってヒスパニックとなる者。中世以降世界は植民者と植民地に分けられ、ラテンアメリカもアジアやアフリカと同様に植民地としての運命を辿ったが、地理的にアメリカと近く、資本主義への依存と癒着が見られるのがラテンアメリカ地域の固有性ではないだろうか。

私は一年間の授業を通して「ラテンアメリカは何故貧しいのか」「ラテンアメリカは本当に貧しいのか」の二点の疑問を持ってこの本を読み始めた。内容には経済学の概念が多く、必修のマクロ経済学を適当に勉強してしまった私には大変だったが、これを機に勉強しなおすつもりでいたい。またこれからもいろんなラテンアメリカの本を読んでいきたい。

この本を読んで感じたことは、新興国の経済の脆弱性や、経済に対する政府の影響力の大きさの強さである。ラテンアメリカで「失われた10年」と呼ばれる1980年代の経済危機はラテンアメリカ政府が債務やインフレに対して有効な手立てを打ち出せなかったことに起因している。「市場の力」のみでは貧困は解決されることがない。自由経済化によってラテンアメリカが成長しつつあるのは確かであるが、資本主義が全ての国に適応されうる最上の価値であるかは疑問を持ち、慎重になる必要性があると感じた。
現代人はお金なくしては生きることができない。今まで避けてきた経済だけれども、社会のことを知るためにもっと勉強しなくてはいけないと感じた。

【ホンヨミ!0105①】やさしさの精神病理【田島】

「やさしさの精神病理」大平健著

著者は現代人の「やさしさ」とはいわば人付き合いの技能であり、具体的で実践可能なことだと述べている。本書は「やさしさ」という言葉の使われ方の変化を通して、「出来るだけ他人の心に立ち入らず滑らかな人間関係を築こうとする」現代人の葛藤への脆弱性を指摘している。今回はtwitterなどのWEB上のコミュニケーションツールを本書の観点を利用して考えてみたい。


この本は10年以上前に出版された本であるが、その指摘は未だ新しく身近に感じられる。この本のなかで著者はポケベルについて触れ、「電話したい気持ち」のみを送るこの機械を「電話に伴う、相手の都合を考える葛藤を軽減する受身になるための道具」と指摘した。やがてポケベルは携帯メールの発展によって廃れた。メールは電話よりも時間性に束縛されない通信手段である。あくまで通話の補助的存在だったポケベルは、さらに通信の葛藤を解消してくれるメールにとって変わられたと考察できる。

人間誰しも自己表現をしたいもので、それと相反するように「相手にとって興味がなかったら、めんどくさいと思われたら嫌だ」という葛藤も生じる。人は相手によって話題を使い分ける。インターネットというライブ感が薄く、ストックがきき、不特定多数に公開できるツールは、ブログなど一部この葛藤を解消することが可能になる。ただ「mixi疲れ」という言葉が象徴するように、その人間関係が現実世界と同化するとまた再び葛藤に引き戻されるようだ。

そこで登場したのがtwitterではないのか。「つぶやき」とは上手い表現である。twitter上には、「つぶやき」だからどんなにささいな自己表現も許されるという雰囲気が形成されている。TL上に現れては消えていく大量のつぶやきは興味のある誰かが反応するかもしれないし、しないかもしれない。しかし「つぶやき」だから何の問題もないわけである。twitterは情報通信ツールとして非常に素晴らしいであり、同時に本書が指摘する自己表現がしたいけど苦手な「やさしい」現代人にやさしいSNSでもあると思う。

日本ではこのtwitterは情報収集の側面とSNSの側面どちらでより広まるのであろうか。現在twitterは「珍しいもの好き」「時流に敏感な人々」は知っているが、大衆には浸透しきっていない感覚がある。携帯からのアクセスをより便利に身近にし、現在mixiを利用している若者を取り込めばもっと浸透すると私は思う。しかし知ってる友だちがいないSNSは利用されない。どうにかして最初の若者を取り込むことができれば、twitterを彼らのハブ化させることができる。わたしたちはゼミの活動の一環としてみんなでtwitterを始めたが、それはかなりの例外である。ならどうするか?芸能プロダクションと提携し、嵐など学生に人気な芸能人がもっとtwitterからつぶやきを発すれば結構ウケるのではないか?

【ホンヨミ!0105⑤】グッドデザインカンパニーの仕事【栫井】

グッドデザインカンパニーの仕事/水野学


グッドデザインカンパニー代表、アートディレクターの水野学さんの本。グッドデザインカンパニーの始動以来10年間の仕事とそこに秘められたこだわりをひもときながら、水野さんのモノに対する姿勢を語っていく。

大局と詳細の両方を丁寧に見ることが大事なのだと感じた。
プロダクトひとつひとつ、ロゴのデザインひとつひとつ、で見るのではなく、プロダクトがどう人に伝わっていくのか、その過程全体を見ていくこと。プロダクト単体ではなく、ブランド全体のイメージをどう構成していくかをしっかり見据えて設計すること。そしてブランドのイメージを正確に表現するために、細かいディティールにまで気をめぐらすこと。
全体と部分、両方に凝るためには、一貫したコンセプトが必要になる。なんとなくかっこいいから、とかおもしろいと思ったから作るのではなくて、しっかりとしたコンセプトを持った上での設計が、ブランドイメージを確立させる。
ならば、コンセプトはどうやって定めていくのか。
「なぜ?」を突き詰めることだ。どうしてそれが必要なのか、それがもたらすものは何なのか、考えることは自分の感性も磨いていく。
ブランディングとは、人に対して、どのような感触を与えられるかを考えることだと思う。プロダクトの効用を越えて、そのブランドしか与えられない体験を作り上げることだ。それがコンピューターには出来ない、熟考と感性勝負の世界ではないだろうか。

水野さん、そしてグッドデザインカンパニーの目標は「よりよくすること」だという。
よりよい人の生活をプレゼントするために、作る側は何が出来るのだろうか。それを学ぶことが出来たように思った。

【ホンヨミ!0105⑤】サルバドールの朝【金光】

『サルバドールの朝』

スペイン内戦時代、フランコ独裁政権に抵抗した若者たち。そしてそれを武力で封じ込める政府、警察。スペイン語以外は禁止されていた。サルバドールも、政府に立ちむかったそんな若者の一人。MILという組織で、「絶対に捕まらない」というグループの理念のもとに銀行から資金を奪い、さまざまは活動を繰り広げた。最初は波に乗って銀行強盗もうまくいき資金も回っていたが、警察にも目をつけられ、だんだん苦しくなる。そしてついにある日、計画が失敗し、サルバドールはもみ合いの最中に警官を銃で殺してしまう。当時の「警官殺し」に対するイメージはとても悪く、彼のもともとの立場もあって弁護活動はなかなかうまくいかない。担当弁護人は弁護士としての自分のイメージが悪くなることも承知で、全力で彼を弁護。
しかし残酷にも死刑執行の命が下る。
執行まではあと12時間。
その間にフランコや法務大臣に恩赦を取り付けられれば彼の命は、そして市民の希望は救われる。胸の中の、今にも消えそうなかすかな希望の火だけを頼りに、なんとか精神状態を保とうとするサルバトール。電話を受けて駆け付けた彼の3人の姉妹。弁護士協会で電話をかけまくるよう指示する担当弁護人。立場上なにも言えないのがもどかしく、サルバトールを見つめる刑務所員。冷酷な顔で彼の墓地の有無を姉妹に尋ねる係員。そして、一人、留守番をさせられた、サルバトールを兄弟一慕っていたまだ幼い妹。
刻一刻とまるで音をたてるように無情に過ぎる時間。夜が明け、いつもと同じような朝が来る。しかし、そこで彼は独裁政権最後の死刑者となる――
その数時間の描写が何よりも重く辛かった。ピストルで人が殺される。死刑で処罰される。人の命の重みは同じ。でも、自分の死、目の前の人、家族、兄弟の死の瞬間を知りながら迎えることがこんなにもやりきれないものなんて。もう二度と生きたこの人の体に触れることはできない、声も聞くことができない。思い出も作れない。死を待つ人は必死に生きようとする。その気持ちを知って、でも自分には命が残されていて、でも何もしてあげられない。命を奪おうとしているのも同じ人間。その流れを止めることはできない。法に従う限り。
そういえばこういうことに直面したことがないんだと思った。すごくショッキングで、涙が止まらなかった。単純に、死について。そしてこのような時代背景や死刑という制度について。日本には死刑制度がある。冤罪は許されるものではない。今まで自分の想像が及んでいなかった一面を見て、うまく言葉にならないけれど、すごく苦しかった。

【ホンヨミ!0105④】バルサとレアル スペイン・サッカー物語 【金光】

フィル・ボール  『バルサとレアル スペイン・サッカー物語』

バルサはFCバルセロナ、レアルはレアルマドリード。言わずと知れたスペインのサッカーのクラブチーム。
なぜ、この2チームが取り上げられたかというと、両者の試合はエルクラシコと言われ、スペインのサッカーの試合の中でも特に盛り上がる一戦だからである。そしてその裏には敵対関係の長い歴史が詰まっている。
スペインのサッカーは日本のそれとは比べ物にならないほど地域に根付いている。日本の阪神、巨人ファンよりもずっと、チームと地元住民との結びつきは強く、女が前に出ることがよしとされていないところでもサッカーの話は老若男女みなそれぞれが自説を展開する。
歴史で言うと、バルセロナの方が2年早く誕生した。しかしもともとはスポーツ全般を目的にしておりサッカーに特にこたわりはなかったようだ。両者の対決は1902年に始まる。首都マドリードに本拠地を置くFCマドリードは、時の独裁者フランコによる干渉、影響を強く受ける。対するバルセロナはそれに対する勢力として力をつける。当時はスペイン語以外の公用語が禁止されており、カタルーニャ地方発祥のバルセロナやバスク人純血主義をとるアスレチック・ビルバオなどは弾圧を受けた。バルセロナはとてもおおらかかる自己愛が強い民族で、中央政府による圧力にもめげずに力を伸ばした。バルセロナの選手がマドリードに巨額の金と共に移籍する、審判が八百長を働いた疑惑がある、などの圧力にもめげずに力を伸ばす。
地元ごとに団結して熱くなるこのサッカーへの熱気を利用しようとしたフランコにもうなずける。方言というレベルではなく、根本的な言語が違うほど(バスクの言葉はスペイン語と何の共通点もないと言われている)同じ国の中で特色が違い、誇りを持ってチームを応援する、その感覚は今の自分には想像しても実感がわかない。でも、「銀河軍団」マドリードに対抗できたのは、バルセロナ地方のあの独特の、自分たちが一番だ!というふてぶてしいまでに純粋な雰囲気があったからだと思う。フランコはおそらく、二大勢力をスペインの中でイメージづけたかったのだろう。必ずしも相手はバルセロナでなくてはならないことはなかったはずだ。フェア精神が命のスポーツにおいて、八百長、故意による誤審は許されない。しかし、そのような内戦時代を経て、現在両チームは世界を率いる大きなチームになっている。マドリードは四期連続で収入の多いサッカーチームでもある。金持ちと庶民派チームの対戦を、クラシコと呼ぶのはブラジルやアルゼンチンにもあるらしい。レアルとバルサは両チームとも有名で経済力もあるが、フランコ時代の構図はまさにそうだったと思う。民衆は、庶民派に味方し、ゲームは熱く盛り上がる。
FIFAワールドカップが始まった今、サッカーをこのような歴史的な観点で見るのもいいと思った。

【ホンヨミ!0105②】2030年メディアのかたち【岸本】


 メディアコムでも授業を担当されている元日経の坪田知己さんによる一冊。
 インターネットの発達の歴史やメディア史などのマクロな視点と記者の足を活かしたミクロな視点が混ざっていて面白いです。

この本で述べられていることは以下の4つです

1. 情報社会の主導権は供給側から需要側へ

2. メディアと社会・組織の構造は伴って変化する

3. メディアは「多対一」へ変化していく

4. 情報の信頼の確保



1. 情報社会の主導権は供給側から需要側へ

 これは他ならないインターネットの普及による情報の爆発によって共有過多になったために主導権が移ったと言えます。



2. メディアと社会・組織の構造は伴って変化する

 これは以下の図にまとめられます。メディアと構造の変化のどちらが先かは一概には言えませんが、伴って変化するということには一定の説得力があります。

3. メディアは「多対一」へ変化していく

 これは1と2の帰結であると言えます。

 

 一対多:マスメディア(情報は一方通行)

 多対多:ネットメディア(双方向)

 多対一:エージェントメディア(また一方通行?)

 

 現状のネットメディアでは情報は双方向に流れるようになり、また必要な情報も手に入りやすくはなりました。しかし、意思伝達、あるいは検索のための取引費用が膨大になってしまいました。

 そのため必要な情報のみをより効率的に伝える必要が出てきました。これは編者となる緩衝剤が必要であるということです。こうした編者のことを筆者はエージェントと呼んでいます。

 この編者は様々な方法で既に実現していると言えるでしょう。例えば、ニュースサイトのカスタマイズ、あるいはRSSリーダー、またあるいはクラウドソーシングによるタグ付けなどです。タグ付けの方法についても様々あり、弟子筋にあたる濱野智史さんのこの論考も興味深いです。



4. 情報の信頼の確保

 筆者はまず情報の信頼を4つに分類しています


 信頼の4パターン(一部改)

 - 権威による信頼

 - 「世間」による信頼

 - 友人による信頼

 - 自己の体験による信頼


 これから従来のメディアだけでなく市民メディアがいかにして信頼を築き従来のメディアの代替メディアとなることができるかということを論じています。



 この本を読んでいて常に頭の中にあったのはTwitterのことでした。Twitterが万能なエージェントを務め、また従来のメディアに代替するとまでは思いませんが、こうしたマイクロブロギングでなおかつ一方的に「フォロー」するという仕組み(アーキテクチャ)が次世代のメディアをある程度予見していると言えるでしょう。『Twitter社会論』で登場した属人性という概念が信頼を生み、ニュースソース、編集者としての社会的な価値を持つことを考えると、現在のTwitter及び同様のマイクロブログサービスのアーキテクチャ及び普及の過程、ロックイン戦略などを比較することで今後のメディアのあり方を予言することが出来るのではないかと考えました。

2010年1月4日月曜日

【ホンヨミ!0105⑥】日本文化を英語で紹介する事典【大賀】

杉浦洋一・ジョンKキレスピー著「日本文化を英語で紹介する事典」(2004年、ナツメ社)

***

 「日本人は何の宗教を信仰していますか?」「『粋』とは何ですか?」「日本人はどうして『米』が好きなのですか?」―もしあなたが海外へ行き、こんなことを外国の人々から尋ねられたらどうするか。大半の人は答えに詰まるだろう。自分の身の回りに当たり前に存在している物事の意味を説明することは至難の業だ。日本語で説明できるかどうかすらも危ういのに、ましてや外国語で説明するとなると…。本書はそんな私たちのための本である。
 祭事、食べ物、生活習慣などの各テーマごとに、いわゆる「日本文化」と言える物事をひとつひとつ丁寧に解説している。ただ英文が並んでいるだけではなく、対応する日本語も書かれているため、英作文や読解の練習にもなる。私自身は、本書を音読するようにしていた。日本文化に対する理解を深めながら英語を学ぶことができるとは、一石二鳥である。
 実は、海外留学のたびに持って行っていたものの、まともに読んでいなかった本のひとつ。この冬休みに読み返すごとができて良かったと素直に思う。今度海外に行く時は、本書に頼らずとも日本文化の説明ができるようになっていたい。

【ホンヨミ!0105①】What I Wish I Knew When I Was 20【岸本】


 ゼミでの人生に対する問題意識と非常にリンクしている一冊。

 

 書いているのはスタンフォード大学d.schoolのTina Seelig。日本の20歳がどれだけ読んでいるかはともかく、読んで損は無いと思います。とにかく金言だらけ。(ジョブズのスピーチとか先生の去年の贈る言葉とリンクします)多少分からない英単語を読み飛ばしてもどうにか読めるので、英語で何か読みたいという人にもお勧め。(自分的には恥ずかしながらこれが完読した最初の英語の本です笑)

 あと、d.schoolのケースの内容が単純に面白いので、自分だったらどうするかと考えながら読むのも良いと思います。とにもかくにも、就活の途中段階でこの本にめぐりあえたのは良かったと感じています。


 要点を一言で表すと「Give yourself permission to embrace some uncertainty.(不確実性を受け入れるようにしなさい) 」ということ。


 もう少し細かく見ていくと以下のようになります


Give yourself permission 

- to challenge assumptions(引き受けることに挑戦する)

- to look at the world with fresh eyes(斬新な視点で世界を見つめる)

- to experiment and fail(実験、失敗をする)

- to plot your own course(自身の進路設計をする)

- to test the limits of your abilities(能力の限界を試す)


- to challenge assumptions(引き受けることに挑戦する)

 これは機会に対してオープンでいること、機会を十分に活かすこと、身の回りの環境に注意を払う(外国人旅行者のようにふるまう)こと、出来るだけ多くのポジティブなインタラクションをとることなどが機会をより多く得ることに繋がるとしています


- to look at the world with fresh eyes(斬新な視点で世界を見つめる)

 まさしくデザイン思考やブルーオーシャン戦略に繋がるところです。

 ニーズの発見に関してはこんな文があったので引用します。

The key to need finding is identifying and filling gaps -- that is, gaps in the way people use products, gaps in the services available, and gaps in the stories they tell when interviewed about their behavior.

 また、ルールは最低限の共通了解なので、しばしば疑ったり、破ったりすることも必要だとしています。


- to experiment and fail(実験、失敗をする)

 ここらへんはいかにリスクをとり、失敗から学ぶかが重要とされています。もちろん自分の失敗はもとより、失敗を避けるためには他人の数多くのロールモデルを見ることも重要だと説いています。


- to plot your own course(自身の進路設計をする)

 就活生としてはここがかなりビビッと来ました。自分の役割を探すには、「自分のスキルがあること」と「自分が好きなこと」、そして「それが社会に必要とされているか(市場があるか)ということ」3つの相互作用が重要だということです。

 1. スキルがあって社会に必要とされているだけでは仕事を楽しむことは出来ない。2. 自分にスキルがあってそれが好きであるのみで社会に必要とされていなければそれで食っていくことは出来ない。3. 自分が好きで社会に必要とされていても、自分にスキルがなければ自分がやる価値はない。

 

 全てが揃うことこそ、自分にとってベストな結果を生む進路の選択なのでしょう。ただ職業選択のみが全てではないので、これもまた1つの考え方に過ぎません。それを踏まえた上での人生設計が必要だと感じました。(1番は家庭や趣味という別の領域を生き甲斐とすることでルールは変わるし、2番は世界的なネットの普及によるニーズのロングテール化でチャンスが広がったと言えるでしょう。また3番は従来よりもスキル獲得の機会は開かれていると言えるのではないでしょうか?)


- to test the limits of your abilities(能力の限界を試す)

 ここでは、first-moverであることや、オーバーアチーヴを達成すること、チームプレーヤーでいること、チームの目標と各個人の目標、そしてその手段と各個人のスキルのalinementをすることが重要であるとしています。チームを大事にするというのは、世界は思ったよりも狭いので、また巡り会う機会はいつか必ず訪れるからだそうです。

 

 関連ですが、おそらく日本で一番Seeligに詳しいと思われるSFCのインキュベータの牧さんの記事が充実しているので関連リンクをば。こちらにも関連した内容が有ります。

二十歳の頃に知っておきたかったこと 2007 - Innovation, Creativity and Entrepreneurship

運を自ら引き寄せるattitudeとは -"What I Wish I Knew When I Was 20"- - Innovation, Creativity and Entrepreneurship


【ホンヨミ!0105⑤】家族を看取る‐心がそばにあればいい【大賀】

國森康弘著「家族を看取る‐心がそばにあればいい」(2009年、平凡社新書)
2009年1月3日読了

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 先月、祖父が亡くなった。突然のことだった。私は呆然とした。祖父の死を、すぐには受け止めきれなかった。「あの時ああしておけばよかった」-後悔の念が、どっと押し寄せてきた。不思議と、涙はあまり出なかった。ただぼんやりと、ああ、こうやって残されていくんだな、そんなことを思ったりもした。

 生きとし生けるものはいつかは死ぬ。それは当たり前のことなのに、私たちは「死」を恐れている。残して逝くことも、残されて逝かれることも、怖い。何とかして、避けたい。現代社会において、延命治療を望む家族が多いのは「残されて逝かれる」ことへの恐怖からだろう。‐本書はそんな怖がりな私たちへのメッセージだ。「死は恐るべきものではない」本書の主人公である柴田さんから、私たちに向けられた言葉だ。柴田さんは「世界一手厚い介護」を施す「なごみの里」という介護施設を、離島で経営している。彼女は、高齢者を「幸齢者」と呼び、思い切り我儘をさせて過ごさせる。生を強制することも、もちろん死を強制することもない。ただ自然のままに、家族と共に過ごすことのできる環境を提供する。やがて「幸齢者」たちは死に逝く。しかしそれは悲しむべきことではない。残された者は、「幸齢者」の死によって生きる力を与えられる。また当事者である「幸齢者」たちも、「あの世」で平穏に暮らすことができる。
 そんな風に書くと、「あやしい宗教書の類か?」と思われる人もいることだろう。そう疑うのなら、本書を手に取ればいい。本書は、宗教書でもなければ、医療書でもない。社会学の本でもない。ただ、自然のままに、「人間の在るべき姿」を書いた本だ。

 私が本書を手に取ったきっかけはやはり祖父の死だった。「死って何だろう」-私の中には、ここ一カ月の間、ぼんやりとこの疑問が渦巻いていた。人間の死をどのように受け止めるべきなのか、私にはわからなかったのだ。
 柴田さんは言う。死に逝く者に対して、「ただ手を握ってあげるだけでいい」と。死に目にあえなくても、それは悔いることではない、と。死に目に会えなかったのは、自分の死ぬ姿を見せたくないと思ったその人自身の意思なのだから。そういう場合は、死んでしまった者の体に触れるだけでいいのだ。‐思えば。私が祖父の死を受け止めることができたのは、死に化粧を施した祖父の胸元に触れ、その着物の中に「六文銭」を入れた時、だったような気がする。その時初めて祖父の体に触れて、私は気が付いたのだ。もう、祖父が「ここ」にいないことに。そうして徐々にその事実を受け止めることができたのだ。

 「死」は恐るべきものではない。忌み嫌うものでもない。その言葉を胸に、私は今日も、生きてゆく。

2010年1月3日日曜日

【ホンヨミ!0105④】決めぜりふ【大賀】

斉藤孝著「決めぜりふ」(2009年、世界文化社)2009年1月2日読了

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 「声に出したい日本語」でお馴染みの斉藤孝氏の新作ということで、何となく手に取ったのだが、題名を見てびっくり。私の大好きな「幕末維新」の名言集であるというのだから!これは買わずにはいられまい、と、即座にレジに走って購入。すぐに熟読した。

 斉藤氏は、「私は歴史家でもなければ小説家でもない」と最初に述べ、あくまでも本書は「過去の人物たちの何が現代へとつながっているのかという『切り口』を考察するものだ」としている。とは言っても、歴史をまったく知らない人が書いた単なる流行モノに留まっていないのが本書の素晴らしいところだ。各人物の名言には必ず、その人物がどのような人であったのか、どのような境遇に置かれていたのかという説明文が添えられている。また、各章の間には「短時間でわかる幕末維新データファイル」が掲載されているため、歴史の知識が危うい人にとっては安心の設計だ。歴史好きな人はもちろんのこと、歴史に詳しくない人であっても十分楽しめる良書である。
 本書で紹介されている人物は全部で40人近く。新政府側から旧幕府側まで、どちらか一方に偏ることなく多種多様な人物の言葉が掲載されている。ただ「この言葉が格好良い」というだけではなく、現代の人々(とりわけ若者たち)への教訓が添えられている。将来に悩みながらも、未だ一歩も踏み出せていない私にとっては耳の痛い言葉ばかりだ。もっと頑張らなければ…と痛感した。個人的に心に残ったのは、大鳥圭介の言葉。「今度はいちばん降参としゃれてみてはどうか」‐オール・オア・ナッシングが当たり前の「武士道」の世の中で、「駄目だったから死ぬのではなく、生きてみて、できることをやってみよう」とする粘り強い精神を示す言葉だ。私は正直、彼のような生き方は狡賢いと思い嫌っていた。しかしよくよく考えてみれば、大鳥の生き方には学ぶべきところが多いような気がする。生か死か、成功か失敗か、という考えは、視野が狭い。失敗してもまた次に頑張れば良い、何も死ぬことはない。‐確かに、その通りだ。

 …とはいっても私のあこがれる精神は一本気な「武士道」‐それは変わらない。その過去の精神を持ちつつ、近代まで生きた人々の生き方に学ぶという柔軟な姿勢を持ちたいと思う。

【ホンヨミ!0105④】グランズウェル【栫井】

グランズウェル ソーシャルテクノロジーによる企業戦略/シャーリーン・リー、ジョシュ・バーノフ(訳:伊東奈美子)


どうして論文中に読まなかったんだろう、と後悔した一冊。
本書で取り上げられている「グランズウェル」つまり、人々が自分達で情報を生成し調達する力は、私たちが先日書き上げた論文が社会にもたらす意義を説明していると感じた。

今、消費者と企業との関係は大きく変わっている。従来の一方向性のマーケティングが双方向的になり、単なる「モノ」としての商品ではなく、人々の生活に「経験」を与える商品が求められている。
この変革をもたらしたのが、テクノロジーによってエンパワーされた人々の力だ。「ソーシャル」という言葉がキーワードになるグランズウェルは、今まで企業に届くことも消費者同士で交わされることもなかった人々の声を、確実に世界中に広めている。

本書は、企業に向けられたメッセージが主となっていて、グランズウェルが企業にもたらすものを中心に書かれている。私たちの論文は、グランズウェルを促進する側面を持つ、UGCプラットフォームの作り手に焦点を当てているので、少しアプローチが異なるが、もっと論文に使う時間があれば、本書にあるような企業マーケティングの立場についてももっと言及したかった。
論文中、角川×YouTubeの戦略について研究したが、まさにこれはグランズウェルを活用した成功例と言えるだろう。
ネット上に溢れ自社についての人々の感情の発露を、丁寧に目で確認し、語りかけ、パートナーシップを結ぶ。今までだったら権利問題として排除していた顧客を取り込み、より自分たち(角川自身とその顧客)がウィンウィンになれる方を採った。
人々が元々内に秘めていた情熱を、上手くサポートして自社の利益にも変えていく。角川が大切にしていると伺った「愛」は、どんな商品にも適用出来ると思う。角川のような作品ではなくとも、世の中に出るひとつひとつの商品には、それぞれ顧客とのストーリーがある。自分の持つストーリーを誰かに伝えたい、そうした欲求は、テクノロジーの支えによって膨らんできている。これらの声を自分たちに取り込むために、企業は変革する必要があるだろう。

人と人との関係を強化する、ソーシャルプラットフォームは社会の流れを大きく変えていく。本書を読んで強く感じた。

【ホンヨミ!0105③】毎月新聞【大賀】

佐藤雅彦著「毎月新聞」(2009年、中公文庫)

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 まずは正直に言うと、私はまだこの本を全部読んでいない。なぜならば、全部読み切ってしまうのが「モッタイナイ」からだ。
 
 本書は、メディアクリエイターとして活躍し、NHK教育テレビでおなじみの「だんご三兄弟」「ピタゴラスイッチ」を手掛けた人物(現在は東京芸術大学および慶應義塾大学教授を務める)である佐藤雅彦氏が、1998年から02年まで毎日新聞夕刊紙面上にて連載した記事をまとめたものである。日常の些細な出来事、素朴な疑問を、わかりやすい文体と可愛らしいイラスト(ケロパキというカエルのキャラクターが活躍する4コマ)で書き綴っているわけだが、とにかく、面白い。「ああ、確かに」と共感したくなるものから、「へえ、なるほどなあ」と感心するものまで。飽きることなく様々なストーリーが楽しめるのだ。作文を書く際にも参考になる。そこで私は、一日何個かを読んで、そこでお終いにするという「毎月新聞を読む際の自分なりのルール」を設定してみた。どうにも頭が働かない朝、休みボケが抜けない日々のスパイスとして読んでみることにしたのだ。効果は覿面。(文章がうまくなったかどうかはまだ定かではないが)私自身、佐藤氏に負けまいと、日々の出来事にアンテナを立てて暮らすことができるようになった…気がする。
 佐藤氏は、常にアンテナを立てて生活しているに違いない。だからこそ、老若男女、様々な世代の人々に愛されるキャラクターを生み出すことができ、また、多くの人々の共感を生むようなストーリーを考えだせることができるのだ。

 あと残り半分ほど残った「毎月新聞」を、毎日楽しみに読んでいきたい。そして、いつの日か私も、佐藤氏のように私なりの「新聞」を発行してみたいと思っている。

【ホンヨミ!0105②】<恋愛結婚>は何をもたらしたか【大賀】

加藤秀一著「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」(2004年、ちくま新書)
2009年12月読了

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 2009年12月27日の朝日新聞朝刊に興味深い記事があった。同新聞社が「家族」をテーマに実施したという定期国民意識調査で浮かび上がってきた実態に関する考察だ。結婚について、若者(20代~30代)の6割が「しなくてもよい」と答えたという。結婚をすることのメリットは大きいか否かという質問では、女性も男性も「大きいとは思わない」の答えが半数を超えた。また事実婚や夫婦別姓についても、約半数の人が「容認する」と答えた。結婚に対する若者たちの意識が多様化していることが顕著に表れている。しかしその一方で、「家族は安らぎを与えてくれる」と答える若者は67%に上っているともいう。自己中心的で冷めた結婚観を持ちながらも、「家族」という存在にあこがれを感じ、それに依存する若者たちが多いのだ。
 この記事を読み、何となく自分のことを言われているようでいたたまれなくなった。自慢ではないが、私は恋愛をしたくない。面倒くさいし、何よりも恋愛によって自分の仕事や趣味の時間が削られてしまうのがバカバカしいからだ。でも、結婚はしたいし、子供はほしいと思っている。幸せな家庭を築きたいという夢だってある。自分自身、矛盾した考えだというのはわかっているのだが…。私の中では、不思議なことに、恋愛が結婚に結びつかないのだ。

 本書は、「恋愛」がどのようにして「結婚」に結びついていったのかという経緯を、歴史的背景を踏まえながら読み解いている。「優生思想」(良い血統の子供を創造すること)が恋愛結婚流行と定着の背景にあったというのが筆者の専らの主張だ。筆者の意見をうのみにしてしまうと、恋愛結婚が非常に「戦略的」に思えてしまって、腑に落ちない感じがする。(社会学系統の本にはよくありがちだが)筆者の考えや意見が前面に出されすぎていて、読者としては一歩引いてしまうというか、「本当に…?」と疑ってしまった、というのが本音だ。
 ただ、「恋愛」=ロマンチック・ラブ、「結婚」=幸福という「一般常識」を覆そうとする筆者の姿勢は非常に面白い。私のような「恋愛ノットイコール結婚論者」からしてみれば、だが。

 はたして恋愛は結婚につながるのか否か。かつて流行した松島奈々子主演ドラマ「やまとなでしこ」に、次のような台詞があったのを思い出す。「お金持ちだけど爺さんと、貧乏だけどイケメン、どっちと結婚する?」キラキラの客室乗務員である主人公は迷わずに「お金持ちだけど爺さん」を選んでいたが、実際には、貧乏な青年と結ばれる。恋愛がそのまま結婚に向かってしまったのだ。はたして、本当にそうなるかどうか…ううん、頭が痛くなってきた…。

【ホンヨミ!0105①】学歴分断社会【大賀】

吉川徹著「学歴分断社会」(2009年、ちくま新書)
2009年12月読了

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 現代の日本社会は平等だ。本日より始まったNHK大河ドラマ「龍馬伝」を見ながら、ぼんやりと、「ああ、私たちは幸せだなあ」などと思わずにはいられなかった。幕末の土佐藩においては、「上士」と「下士」という身分制度があり、着るものから食べるもの、立ち居振る舞いまで全てにおいて大きな格差があった。もちろん、その他地域においても、公家・武士・商人・農民、そして「えた・ひにん」と呼ばれる人々と、封建的身分制度は存在していた。不平等な社会が当たり前だったのである。それが、今はどうか。日本社会において、人々は同じ人間として「平等」に扱われている。何と幸せなことだろうか!
 しかし、このような現代の状況は手放しで喜べるものではない。なぜならば、「平等主義」の社会の影に隠れた人々がいるからだ。ネットカフェ難民やホームレスといったいわゆる「貧困」に苛まれた人々がそれにあたる。日本社会は、実際にはけして平等ではない。かつての状態からは脱却したものの、いまだ、見逃されている格差があるのだ。本書はそんな格差のひとつとして、「学歴格差」をあげて検証している。

 個人的には、本書の筆者の意見は少々極端すぎる気もする。大卒/非大卒という二つの区分で、はたして格差は語れるのかどうか。大卒は本当に社会的に「偉い」人々になれるのか。専門学校卒は「非大卒」に区分されるが、専門的知識や技術を身につけているという点では大卒よりも社会的に通用する人間になっているのではないか。高卒の親から生まれた子供はやはり高卒になるのか。-数々の疑問が出てくることは否めない。人々の価値観が多様化した現代社会においては、「必ずしもそうとは言えない」という曖昧な言葉が生まれ得るだろう。
 ただ唯一言えることとしては、「大学全入時代には危険が潜んでいる」ということだ。誰もが(選ばなければ)大学に入れるようになった時代。それはいうなれば、誰もが無意味なモラトリアム期間を過ごす可能性があるということだ。何のために大学に入ったのか。何のために勉強をしているのか。くだらないことかもしれないが、しっかりと一人ひとりが胸に刻んでおく必要がある。そうでなければ、大学は、「ニート」や「引きこもり」といった人々の予備軍を社会に排出する機関となってしまう。

 かつての封建的身分制度下の社会に比べれば、私たちは自由に物事を選び、行動することができる。重要なのは、「自分自身が何を成し遂げたいのか」をしっかりと考えることだ。

私の2010年

あけましておめでとうございます。

私の2009年は「進」でした。
2010年は+「決」の年です。

2009年を振り返ってまず思うことは、とても楽しかったという印象です。人にも環境にも恵まれ、のびのびと好きなことに取り組めた一年でした。小さいながらに悩み、迷い、ぶつかりながらも、ただただ前進!していたような気がします。前に進めばいいだけの環境を、自分で作るよりも周囲に整えてもらっていたんだと思います。

そして、どの年に限らず言えることですが、今年は特に大小さまざまな「決」の連続だと思います。個人的な決断はもちろん、ゼミにとって何がいいのか、どうしたいのかを決めることなしに進めません。私はいつも決断に時間がかかってしまいます。時間はかかっても、納得できるような理論を自分で組み立てた上の答えを出したいです。ゼミに関して何かを決めるときは自分自身の意思を持って、でも必ずみんなの意見を聞いて、進みたいです。決めた結果には責任を持つ。その範囲での自由。「自由ある責任」とはそういう意味だと思います。そしていくら言葉で書いてもそれは「絵にかいた餅」でしかありません。きっとやっていくうちに実感することの方が多く、やる前から心配する暇があったら行動してみることの方が何倍も意味があると思います。一年後もう一度この文章を見た時の自分が、自らの決断の上で前に進んでいるならうれしいです。

楽しかった2009年ですが、「決」の先の2010年もとても楽しみです。「決」を今年の漢字に掲げるととても力んでいそうですが、いまはとてもわくわくしています。「楽(ラク)する」と「楽しい」は同じ漢字を使うし意味も似ているようで、実は全く違う!ということに最近気がつきました。今まで自分は勘違いしていたところがありました。ラクするのではなく楽しいと思える決断をする力をつける一年にしたいと思います。

【ホンヨミ!0105⑤】ソフトパワー時代の外国人観光客誘致【斉藤】

 ソフトパワー時代の外国人観光客誘致/島川崇編著

 観光業界、というと旅行代理店くらいしか思い浮かべられなかった自分にとって、観光業界の構造は意外と複数のセグメントの合体によって機能している!ということを気づかせてくれた。観光庁も発足し、日本は現在観光立国として、世界における日本の重要性を確立しようと試みていることは周知だ。権力や軍事力などのハードパワーにおいては、日本は欧米よりも圧倒的に発言力が弱い。そこで、欧米とは違った土俵、つまり日本が持っているユニークな「ソフト」を用いて、日本を世界において魅力的な国にする。その一環として日本が潜在的に持っている「ソフト」である観光資源を生かしていく、という考え方が観光立国である。

 それを推進していくのが観光業界。政府は観光立国としての日本を確立するために、外国人観光客数を具体的に目標値として掲げているが、なぜその目標値を達成しなければならないのか、をしっかりと考えなければならない。外国人を誘致することで得られるものは何なのか。観光には、政府、地方自治体、民間業者など様々な主体が各々の利益に則って推進していくものでもある。なので、観光推進には、それらの主体の利益関係をも考慮する、・コーディネーション能力・ファシリテーション能力・コンサルテーション能力・リーダーシップ能力 が必要だ。

 観光業界はまだまだ私の知らない側面が多くある。上に挙げたような、社会に出たときに必要な問題解決能力の総体のような力が必要とされる、そんな観光業界に興味を持った。


 

【ホンヨミ!0105④】若者のための政治マニュアル【斉藤】

 若者のための政治マニュアル/山口二郎

 現在の生きづらい社会を変えるために必要なのは民主主義である(しかしその民主主義自体の在り方自体を今一度考えなおさなければならない)という主張のもと、その民主主義を実現させる政治の在り方について書かれた本である。単なる机上の政治論ではなく、政治と自分の行動に関連性を見出せない私たちの若者世代に向けた、基礎思考力をつけるための10個の考え方が示されている。

 特に私の印象に残ったのは、「権利の主張」に対する考え方である。公共の利益を尊重するためには、私人の利益を過度に主張しすぎてはならないと考えられがちであるが、公共の利益とは私人の利益の主張の最大公約数であると筆者は考えている。権利の主張と特権の主張は混同してはならない。後者はいわゆるモンスターペアレントやクレーマーなどといった、自分の行動を他者の立場に立って考えることのできない人々による理不尽な主張であって、これをもって現代の人々は権利を主張しすぎると言ってはならないと筆者は述べている。これ以外の、自分以外の誰かも望むでろう権利は、決して主張しすぎということは決してなく、むしろ主張する人がいなければ「最大公約数」という考え方も生まれなく、それでは私人の利益と公共の利益に乖離が生じてしまう。「公共」そして「私」は表裏一体でなければならないのだ。その私人の権利を受け入れ、集約していくのが政治の役割であり、民主主義を持って、私たちはその活動に関わっていかなければならないが、その実感が見いだせていない現状が問題なのだ。少しでも国や自治体で行われることに対して実感を持つために、本書のような「思考への誘い」は有意義だと思う。

2010年の抱負

明けましておめでとうございます。宮村です。

自分の2010年の抱負を表す漢字として「絞」という字を掲げたいと思います。時間という限りある資源を、いかにして最大限に楽しく活かそうかという事を考えた時に、「自分の意識をどこに向けるか」という注意・関心をフォーカスする対象を、本当に自分が価値があると思えるものにより一層「的を絞る」必要があると感じました。昨年は、いささか自分の注意が拡散してしまった時期があって、今思うととても勿体なかったと感じるので、今年は頑張りたいです。

また、漢字辞典を見ると「絞」という字には
・きびしくきたえる
・問題を整理する
という意味も載っていました。
常に、本当に今問題とすべきことを整理して、自分自身を鍛える姿勢を心がけるようにしたいです。

絞るという事を勘違いして視野が狭くならないよう十分に気をつけながらも、本当に大切にしたい物事・人たちとの関係性を大事に、楽しい一年にできたらいいなと思っています。

【ホンヨミ!0105③】メディチ・インパクト【栫井】

メディチ・インパクト/フランス・ヨハンソン(訳:幾島幸子)


何かアイデアを練っているときに、新しい方向にへ思考を飛ばしてみるためにはどうしたら良いのか。一見全く関連がないように見える複数の専門分野の交差点に踏み込んでみることだ。本書では、そうした思考で生まれるものをメディチ・エフェクトと呼ぶ。
ある分野にイノベーションを起こす方法は、その分野を突き詰めて行くことには限らない。別の分野の考えを応用してみたり、今までとは違う視点で対象を見てみたら、全く新しいアイデアが生まれてくるかもしれない。複数の分野の交差点を見つけることは、特に物事が複雑化して従来の方法論が通用しない現代の問題を解決するのに、大切なことである。

複数の分野を混ぜて考えることは難しい。人は自分の得意分野で勝負したいと思うものだし、自分と異質の分野には抵抗を感じやすい。所属組織にしても、自分と似た人たちとつるんでしまいがちだ。しかし、それでは新しい考えは出てこない。居心地の良すぎる組織では、みんなで同じアイデアを同じ方向に持って行ってしまいやすい。だから、異なった考えの人と組んでお互いの考えをぶつけあうことは、難しいけれど、大きな意味を持つ。
異質な者同士の組織では、対立が起きてしまいがちでもある。対立を緩和し、より柔軟な発想の生まれやすい環境を作ることが必要とされる。お互いの意見を無下に否定しないで受け容れて行くブレストや、公平に会議を進めるファシリテーターが必要だろう。馴れ合い、同調するだけのぬるま湯ではなく、刺激的で柔軟な、包容力のある空間作りとは何か。今後考えるべき課題だと感じた。

本書に紹介される思考法の中には、今すぐ活かせそうなものもあった。その一つが、常に心をオープンにして、アイデアの源にアンテナを張っておくことだ。「考えなしの行動?」を読んだときにも思ったことだが、普段から好奇心を表に出して行動するか否かで、自分の中のストックは大幅に違ってくる。当然のことではあるが、ストックが非常に少ない自分をなんとかするには、いつもアンテナを張っておかねばならないのだ、と改めて思った。

【ホンヨミ!0105③】「自治」をつくる【斉藤】

 「自治」をつくる/片山善博、塩川正十郎、他

 正直を言って、本書を通して自分にとっての収獲はあまり得られなかったと思う。本書は、日本のこれからの「自治」について、政界のキーパーソンが行った対談を収録したものである。対談は、複数の話者の視点を見ることができるという点で有意義であると思うが、対談の流れに流されず、学びとるべきところを学びとっていく能動的な読みをするのは難しい。対談は事象説明ではなく、事象にたいする見解を互いに述べ合うものであるから、それだけ見ていると全てが正しいように思えてしまう。そうであるから、それこそ問題意識を持って読むためには、論じられていることに対する十分な知識が必要だと感じた。国家としての政治の流れをすべて把握することは困難だが、では、自分の住んでいる自治体はどうなのか・・・?などアンテナを張ることはできるはずだ。

 対談は特に日本の「官尊民卑」への批判や解決を模索するものだった。その中でも「税金」に対する考え方でよかった点があるので挙げたい。

 税金は市民の意見を反映するもの

 このような考え方は現在私たちはあまり持つことができていないと思う。税金とは自治体、あるいは国が徴収して使い道を決定するものだ。民主主義であるならば、本来この使い道に対しての民意が反映されなければならない。しかし、今特に地方自治体の議会の不透明性が問題視されていて、住民の知らないところで市政が行われている状況だ。本書で論じられたのは、自治体で事業を行うときは民意が必ず必要だ、それを反映させるのには税金が最も適している。事業に対して税金を払うとわかれば、住民がもにその事業を不必要だと考えたのならば、税金を払うことを拒むだろう。今自治体では、この市政と税金の関係が不透明であるからこそ、民主主義としての「自治」が危ぶまれているとことだ。

[書評0105④]市場・知識・自由[竹内]

ハイエクは、「われわれが合理的な経済秩序を建設しようと努めるときに、解決したいと思う問題は何であるのか」と問い、当時近代経済学の内部においても主張されていた一般均衡論が描くような集中的なよく組織された市場はなく、問題は「われわれが利用しなければならない諸事情の知識が、集中された、あるいは統合された形態においては決して存在せず、ただ、すべての別々の個人が所有する不完全でしばしば互に矛盾する知識の、分散された諸断片としてだけ存 在するという事実」にあるのだと指摘する。

社会の経済問題は、社会主義における経済計算のような「与えられた」資源をいかに配分するかという問題だけではなく、「社会のどの成員に対しても、 それぞれの個人だけがその相対的重要性を知っている諸目的のために、かれらに知られている資源の最良の利用をいかにして確保すべきかという問題である。どの人にもその全体性においては与えられていない知識を、どのように利用するかの問題」となる。情報は基本的には非対称的であり、その中で、情報の価値をどのように最大し社会にとっての最適解を見つけていくかが問題なのである。

つまり「個々の参与者たちが正しい行動をとることができるために知る必要のあること」を最も少なくすることができる機構だとして、市場システムを全面的に肯定している。

ハイエクは、様々な場所、時間、形態で様々な立場の人間が持っている、そしてそのことによって社会的生産が実に効率的に行われているような「知識」 が、特定の個人や当局による設計主義的な社会建設、経済建設の方法では決して有効に活用できないのだ。柔軟に変動する緩やかな制約が求められている。


市場設計において、政府の政府の干渉のバランス感覚が非常に重要だと改めて感じた。情報は野放しな状態ではスムーズに流れにくく、最低限の制度による制約は求められる。その制約も時代によって移り変わるため柔軟さが必要になると感じた。


[書評0105③]人間機械論[竹内]

サイバネティックスとは、メッセージの考える際に、機械や社会を制御する通報や心理学など広い範囲でとらえた言葉である。通信基幹が発達したいま、人間から機械、機械から人間の間における通報がますます大きな役割になってきている。
コミュニケーション、通報は基本的に外部との情報の交換によって生まれる。コミュニケーションは外界に影響を及ぼすと同時に、自己にも影響を及ぼす。その ため、逐次自己を調整していかなければ、自己のエントロピーは増大していく。エントロピーとは、何もしない状態ではカオスに向かうことである。これに反す る行為を反エントロピー行為と呼ぶ。例えば、死に向かう人間が何らかの治療等を施し、死からのがれようとする行為がこれにあたる。
反エントロピー行為は必要なものである。これがなければ、カオスに陥り、コミュニケーションが制御不可能になるからだ。反エントロピー行為に必要なもの は、フィードバックだ。フィードバックは情報の出力をまた入力に還元するメカニズムを指す。随時、自己のアウトプットを監視し、自己を調節していくことが 求められる。


サイバネティクスの概念がいまいち理解できなかった。難しい用語が多くでてきているが、もう少しわかりやすい言い回しがあるように思えた。他の文献を読むなどして理解を深めていきたい。
コミュニケーションが容易になったことにより、コミュニケーションの機会が増え、ほうっておくとカオスに向かうスピードが上がるというのは納得出来た。これから、ますます機械とコミュニケーションが重要性を増してくると思う。機械と人間はそれぞれ良いところが異なるので、互いに補完もしくは監視していくことが良いのではないだろうか。機械と人間がそれぞれのフィードバックを監視し合うべきだろう。その中で、フィードバックを迅速に解析し、自己調整へスムーズにつなげる仕組みが求められると感じた。