ラベル キムゼミ!ホンヨミ! の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル キムゼミ!ホンヨミ! の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年1月15日金曜日

【ホンヨミ!0115①】物語 ラテンアメリカの歴史【田島】

物語 ラテンアメリカの歴史 増田義郎著

音楽から映画から伝わってくるラテンアメリカ地域の貧しさ。「その貧しさはどこからきたのだろう?」世界史を履修していない私はその素朴な疑問をスペイン語の先生にぶつけてみたところ、わかりやすいよとこの本を薦めて下さった。というわけで、インカ文明からスペインの侵略、アメリカ資本の流入までのラテンアメリカ史を概観するのに非常にわかりやすい本です。語り口が読みやすいです。

この本を読んで驚いたことは、アメリカ大陸は15世紀まで他の大陸と一切かかわりのない世界史の孤児でありながら、スペインの植民者が到着した際、ヨーロッパ人も賛美する非常に見事な都市を造り上げていたということだ。現在アメリカ大陸の主導権は完全に北アメリカが握っているが、大陸発見時はその逆で、アステカ帝国(現メキシコ)とインカ帝国(ペルー)が高度な文明を作り上げていた。なんと植民者が到着するまでそこには貨幣経済はなく、物品交換を行っていたそうである。しかしながらインカは20万人もの人口を抱える大都市であった。

現在はグローバル化が進み効率化のために、世界はどんどんひとつになろうとしている。しかしそれは一種の脆弱性を生むのではないだろうか。かつて世界から断絶していたラテンアメリカは、ヨーロッパ人の常識を覆す別の方法で発展を達成していた。グローバル化は世界から多様性を奪う。それは文化的損失のみならず、人間の思考を画一化してしまうことにはならないか。西洋とは異なる独自の価値観を形成することを阻害しないだろうか。

また、ラテンアメリカの植民地支配と搾取を見て、日本という国は植民地化の危機を迎えながらそれをプラスに変えた非常に稀有な国だと感じた。日本もまた第二のラテンアメリカとなる可能性を秘めていたのだが、海外の知識を貪欲に飲み込み独立を模索した、幕末から明治にかけての政治家の超人的な先見性、政治的感覚は特筆すべきものがあると思う。幕末の政治家たちについて知りたくなりました。(大賀さんご指南お願いします。)

2010年1月14日木曜日

【ホンヨミ!0115①】アフォーダンス入門【栫井】

アフォーダンス入門/佐々木正人

時折耳にしても、全く理解出来ていなかった「アフォーダンス」という言葉。
せっかく「わからない単語」とわかっているのに、そのままにしておくのももったいないと思ったので、本を読んでみた。

アフォーダンスとは、簡単に言うと、環境が生き物に与えたり、用意したり、備えておいたりするものである。
生き物が何かしらの行為をするとき、そこには必ず行為を取り囲むものがある。
大気、地面、光、私は何かに触れていない状態では、「存在する」ことすら出来ない。たとえば、立つ、という行為は地面から与えられたものであるように。
私が生きている環境のあらゆるものは、私に何かしらをアフォードしている。私自身ですらそうと気づかないほどあっさりと、さりげなく、その存在意義を認識させている。

私 が何かを行うと、私は環境についての情報を得る。そして情報を活かして次の行為に活かす。当たり前のことだが、こうして私は環境と行為を結びつけていって いる。赤ちゃんの頃には出来なかったことが今簡単に出来てしまうのは、私が環境のアフォーダンスが持つ意味を理解して、自分の行為に取り込んでいるから だ。生きることは、環境の中に埋め込まれた意味を探り当てていくこととも言えるだろう。

アフォーダンスの意味は、明快なものばかりではない。

椅子が与えているのは、座ることだけだろうか。私は椅子の背もたれにコートを掛けるし、台にして電球を取り替えることもある。それもまたアフォーダンスなのである。

これらのアフォーダンスは、無意識に知っていても、普段意識することはない。発見するためには、よくよく環境と行為を観察することだ。ひょっとすると、当たり前の日常の中に思いがけないヒントが隠されているかもしれない。

【ホンヨミ!0115①】次に来るメディアは何か【戸高】

河内孝著『次に来るメディアは何か』

 授業の課題で読みました。よってレポート課題をそのまま転載しますが、文学部社会学専攻3年戸高功資のレポートです、これは(コピペ予防策)。


 「次ぎに来るメディア」とはなんだろうかと心躍らせながらページをめくっていったが、内容は少し期待はずれであった。
 そこに書かれていたのはジャーナリスト、津田大介氏によるイベント実況中継や、企業の新たな広告宣伝ツール、またそんなこと関係なしに140文字という、心地よい制限の中、相手の存在を既存のSNSのように深く意識をせず、自分の気の向くままにまさしく「つぶやく」ことができるメディアとして注目されている「twitter」。
 また放送というものが既存の権力であるテレビ局やラジオ局といったものが独占していたが、「ユーストリーム」や「ニコニコ動画」の生放送などによって、「YouTube」などで見られていた個人が動画を発信するということに、リアルタイム性が付加されてきている。
 こういったまさに今使われている、既存のテレビや新聞、出版といった古いメディアに変わる、まさに「新しいメディア」について書いてあるものだと思っていたのだが、がちがちの「メディア再編」論であるように感じた。
 しかし同時に私はメディアの再編論、特にメディアコングロマリットなどについては言葉を知っているだけでほとんど無知であったので大変勉強になった。
 たしかにメディアの再編についてはこれから考えていかねばならない問題だろう。先ほども述べたように、個人でも生放送がネット上で可能になってきた時代だからこそ、本著にも書いてあったような日本の古い形態のままである法体系を、デジタルに対応したものに変えなければならない。
 
 また、既存のメディアはネットを敵として捉えすぎるきらいがあると私は実感している。例えば動画共有サイトを見てみても、角川書店のように質の高い公式チャンネルを出しているコンテンツホルダーもいるが、多くのコンテンツホルダーは動画共有サイトへ広告目的の再生時間の短く、また質の低い動画を提供するか、そもそもネットへ進出していかないかのどちらかである。
 出版社も、電子書籍の登場にあわてふためいているのが現状だろう。新聞社も同じくだ。産經新聞ではi-Phoneで読者は無料で新聞が読めるようになっている。デジタルで本や新聞を読めるようになれば紙媒体としての価値はなくなるのだろうか。
 そんなことはないだろう。紙媒体はなくなることはないと私は思うし、出版不況とは言われているが、むしろかつての好況の状況にも持っていけるのではないかと私は考えている。
 例えば講談社のマンガ雑誌に「モーニング2」という青年向けの雑誌がある。この雑誌は実際ウェブで無料で雑誌の内容をそのまま公開するといった方法をとったのだが、それを行った時の売り上げが、それまでの売り上げよりも高かったのだ。
 その理由は、ネットに公開されるものと、実売される雑誌とでマンガの内容を少しかえ、間違い探し形式にしたり、また付録を付けて販売する等があるようだ。
 このように少しの工夫を行うだけで雑誌の売り上げを伸ばすことは可能なのだ。ネットを敵と見なすのではなく、ネットとの親和性を高めていくことによってまだまだ既存のメディアとしての雑誌にも生き残る道はいくらでも存在しているはずだ。

 またやはり全てのメディアにおいてtwitterを活用していくべきだろう。テレビにおいても、ドラマ番組やアニメでは劇中の登場人物のアカウントをとり、つぶやかせることで様々なキャンペーンを繰り広げることが可能である。
 よくtwitterにおけるジャーナリズムが議論になることもある。本書の中にも、新しいジャーナリズムを創造する上では、きちんと訓練された記者がいることを前提としている。しかし、twitterにおける「つぶやき」にジャーナリズムというものをあまり私は気にする必要はないのではないかと考える。
 現代社会に生きる人間はテレビ番組もリアルタイムで見ることはほとんどなく、HDレコーダーにためて暇のある時に見るといったスタイルである。そんなスタイルではテレビCMは見られることがない。またニュース等も新聞を読むのではなく、ネットで必要な情報のみを検索、またはRSSなどで手に入れる。まさに自分の欲しい情報のみを手に入れて、好きな時に見るといった時代なのだ。これはtwitterで自分がつぶやきを見たい人のみをフォローして情報を得るといったこともつながってくるだろう。
 しかし、このような状況だと、情報が多種多様に存在しており、まさに情報大洪水の状況である。そんな情報が溢れる時代だからこそ、既存のテレビ、出版、新聞といったメディアは主に2つの役割を担うことが重要となってくるだろう。
 1つは情報を消費者が得やすい形に編集するといった役割。これは今とそう変わらないが、その編集の役割に先ほどの「モーニング2」のような読者に楽しみを与えるような情報編集、まとめをおこなう必要がある。つまりは様々なキャンペーンをウェブと親和性を持たせて行うことが重要となってくるだろう。
 もう1つは情報監視の役割。言わば新聞が担ってきたのと同じだ。本書にも書いていたように、新聞が政治権力を監視しているからこそ秩序が守られる。この役割は絶対に失ってはいけない。

 以上までみてきたように、『次にくるメディア』、ここでいう次ぎにくるメディアはコングロマリットなメディア体系ではなく、言葉通りの意味のメディア、が来ても既存のメディアには役割がたくさんある。
 その役割をいかに消費者が楽しめるように果たすことができるか、消費者の期待を越えるように果たすことができるかといったことが重要となってくるだろう。

2010年1月6日水曜日

【ホンヨミ!0105④】系統樹思考の世界【岸本】


 筆者の専門である生物学をベースに、歴史学や哲学などを引きながら系統樹思考について説明した不思議な一冊。


 筆者は系統樹思考とは別の概念として「分類思考」を挙げています。これは物事の一時点の現象に着目して分類するものです。分類思考と系統樹思考の異なる点は、分類思考が一時点の現象に着目しているのに対して、系統樹思考では一時点の現象から歴史的な文脈を推測して、共通の「根」を推測するという点にあります。図で表すと以下の通りです。

 図の分類思考ではABCDはそれぞれ別の分類項目に見えます。しかし、系統樹思考を用いることで意外な繋がり(DとBが近い、など)を発見することが出来ます。

 この系統樹を発見するには筆者は演繹(induction)でも帰納(deduction)でもなく「アブダクション」が必要だとしています。手がかりから推測される仮説を導き、それが一番現象を説明するかどうかを確かめるという方法です。

 これはプロトタイピング、ひいてはデザイン思考に通じるものがあります。(ここら辺はKMDの奥出先生の著書やブログなどが非常に充実しています)

 学問というのは現象を研究しながらひたすら系統樹――それはプロトタイプともフレームワークとも言い換えられますが――をアブダクションによって作り上げ、その検証を行う(より多くの現象について適切に説明できているか)ことなのではないか、とこの本でなされている学問横断的(特にいわゆる理系科目)な議論を読んで感じました。

【ホンヨミ!0105③】ビジネスで失敗する人の10の法則【岸本】


 世の中に数多有る成功のノウハウ本とは真逆の、反面教師的な一冊。

 本書の著者であるコカコーラの元社長ドナルド・R・キーオはMBAなどとはほど遠い出自の人で、海軍に入隊後、一応大学は出たものの(哲学科)、地元のアナウンサーをやったり、食品会社に務めていたりしていました。

 この食品会社がたまたまコカコーラに買収されたためコカコーラに入社したというまさしく「傍流も傍流」な出自の人でした。

 法則は以下の通りです。(11項目あるのはご愛嬌)


  法則1(もっとも重要) リスクをとるのを止める

  法則2 柔軟性をなくす

  法則3 部下を遠ざける

  法則4 自分は無謬だと考える

  法則5 反則すれすれのところで戦う

  法則6 考えるのに時間を使わない

  法則7 専門家と外部コンサルタントを全面的に信頼する

  法則8 官僚組織を愛する

  法則9 一貫性のないメッセージを送る

  法則10 将来を恐れる

  法則11 仕事への熱意、人生への熱意を失う


 これをまとめるならば


  リスクをとる(1, 10)

   (リスクをとるために)

    - 会社をまとめる(9, 11)

    - 社内の意見を聞く(3, 6, 7)

    - 変化に対応する(2, 4, 8)

    - 対外的な信頼を得る(5)

 

 という感じでしょうか。反面教師から見ても導きだされる結論が似てくるということが興味深いです。世界の大企業はやはり理にかなってました。

 ただ、法則5についてはやや異論があって、行動によって社会全体のルール自体を変えていくGoogle的な方法論が(特にネット上では)有効なのではないかと思います。対外的な信頼を得ることが目的であって、反則かどうかは手段に過ぎません。信頼ベースであれば社会のルールすら変えることが出来るのではないでしょうか。

【ホンヨミ!0105③】バカの壁【村山】

印象に残ったのは、「わかる」ということに対する説明である。まず、「わかる」ということに関して、常識とは知識があるということではなく、当たり前のことを指すとある。つまり、常識は知識(雑学)とは異なるということだ。しかし、私たちは日常生活の中で、この「わかる」という言葉が持つ曖昧さを理解できていないのではないだろうか。例えば、サッカー観戦をするためにスタジアムに足を運んで試合を観戦すれば、試合は11対11で行われ、自陣に決められるゴールより多くの点を相手のゴールに決めれば勝ちというルールは知識として理解できると思う。しかし、実際の試合の中では、相手との心理的な駆け引きや、攻守における戦術の違い、仲間とのコミュニケーションなど、試合をパッと見ただけでは分からないようなことが行われている。つまり、「わかる」というのは、単なる表面的な知識を持っているということではなく、そのディティールを理解しているということなのである。こう考えると今まで分かっていると思っていたことも、実際には分かっていなかったという事柄が出てくるのではないだろうか。実際には分かっていなかったということに気づくのは悪いことではないと思う。むしろ、分かっていないことを「わかれた」ことの方が重要なのではないかと感た。
また、この「わかる」ということに共通了解を掛けている部分がある。共通了解は世間の全ての人が共通にしている了解事項のことである。そして、私たちは共通了解を求められている一方で、同時に個性も求められているという矛盾を紹介しているが、この部分は面白かった。ただ、この部分に関しても、全体に関しても「本当にそうなのかな」と思う箇所が多々あったため、完全に消化しきれなかったのが残念であった。

【ホンヨミ!0105②】森の食べ方【村山】

本書は、文化人類学者である筆者がボルネオ島のロングハウスに二年ほど住み込み、「フィールドワーク」を通してイバン(東南アジアはマレーシアのサラワク州で生活する民族)の人々の文化とそれを規定する根拠を解き明かそうとした作品になっている。イバンの人々の世界は、「ロングハウス」とその周辺につくられる焼き畑と、それを包む「森林」によって構成されている。彼らにとって、森は焼き畑地や野生の動植物を恵んでくれる資源としての自然として認識されていて、彼らは豊かな恵みを森から得るために、森と付き合う一定の仕方、つまり、文化をかたくなに遵守しようとしている。まさに自分たちの周りにある環境との共生を目指す原点の世界と言えるのではないだろうか。
そこで、ロングハウスについて考えていきたいと思う。ロングハウスとは、英語の文字通り「長い家」のことで、イバン語のルマフ・パンジャィを直訳したものである。全村人がこのロングハウスの中で暮らしており、ロングハウスには、そこに住む人々の関係性が内包されている。ここで言う人間関係とは、共住生活を営むことによる協力関係や共同コミュニティの形成、引いてはプライバシーへの配慮などである。ここで、私が注目したいのがプライバシーに関してである。ロングハウスのような共同生活では、村人みんなが一つ屋根の下で暮らしているため、個人のプライバシーがどのような形で保障されているのか疑問に思ったからだ。このとき注意したいのは、ここで指摘するプライバシーとは法的権利としてのプライバシーではなく、人々の日常生活における秘め事や恥じらいのあり方と、それに対する他者の関わり方についてである。つまり、言い換えると、ロングハウスでの生活における個人的領域とはどのようなものか、ということである。
また、イバンの人々の生活は自然の資源という名の森に支えられながら、共同生活を行う人々との持ちつ持たれつといった協力関係によって成り立っている。近代社会として発展を遂げたわれわれ日本人には彼らの生活を想像することは容易なことではないかもしれないが、彼らの生活形態を理解することは出来る。われわれに求められていることは、そんな他者、他民族の伝統や多様性を理解、尊重し、彼らのような人間と共生していくことなのではないだろうか。

【ホンヨミ!0105①】忘れられた日本人【村山】

本書は、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者が、文化を築き上げ、支えてきた伝承者、つまり、老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーを交えて生き生きと描いており、辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の表舞台に浮かび上がらせた作品となっている。
本書を読んで私が特に印象に残ったのは「対馬にて」における村の寄り合いの話である。
この章は、過去の文献を探し求めて各地を巡っている筆者が、対馬の伊奈という村を訪れ、この村に古くから伝えられている古文書を見せて欲しいと、老人に頼んでいる場面である。古文書を見せてもらうことは出来たものの、しばらくの間、この古文書を貸して欲しいと筆者がお願いすると、このような問題は村の寄り合いで皆の意見を聞く必要があるとして、寄り合いが行われる。なぜ、このような寄り合いという手段を取るのかと筆者がその理由を尋ねると、「村で何らかの取り決めを行う場合には、皆の納得のいくまで何日でも話し合う。初めには一同が集まって区長からの話を聞くと、それぞれの地域組で色々に話し合って、区長のところへその結論を持って行く。もし、折り合いがつかなければ、また自分のグループへ戻って話し合う。用事のある者は家へ帰ることもある。ただ、区長と総代は、聞き役、まとめ役としてここに留まらなければならない。」、という説明を受ける。この寄り合いでは、時間の経過を気にするということはない。実際に、筆者に関する議題も提示されたのは朝だったにも関らず、午後になっても結論には至っていないのである。これには理由があった。村人たちは、寄り合いの中で筆者に古文書を貸すかどうかについて議論している間に、それと関連のある話題に話を移し、さらにそれと関連のある話題に話を移すということを繰り返し、しばらくしてから再び古文書の話に戻るのだが、いつの間にか、またこれに関連のある話題に話が移るというようなことを繰り返すため、筆者に関する議論の結論を導くことに時間がかかったのである。このようにして見ると、大変のんびりしているように感じるが、少しずつではあるが、話はしっかり発展しているのだ。
このようにして、決して結論を急ぐことなく話し合い、関連する話題を語り合うなどを繰り返し、村落共同体の一員として、地位に関係なく皆が互角に意見を言い合い、村人全体の共通認識を作り、議論の解決策を模索していくのである。このことを上手く表現しているのが、「寄り合いの場で食事をしたり、寝たりなだして、結論が出るまで話し合いは続いた。三日でたいていの難しい話もかたがつくが、皆が納得のいくまで話し合った。だから、結論が出ると、それはしっかり守らなければならなかった。」、という部分だと思う。このような皆が納得するまで話し合うというやり方は、現代の多数決を原則とする民主的なやり方から考えると、とても「非効率的なやり方」に見えるかもしれないが、しかし、「皆が納得のいく結論を得ることが最重要課題」としているため、あえて時間をかけていると考えると、我々もこのやり方に納得できるのではないだろうか。というのも、このような村では農業、漁業を含めた日常生活を村の人々みんなで協力して行う必要があるため、地位が高い人間だけの意思を尊重したり、多数決で結論を得たりするより、時間をかけてでも、皆が納得する形で決着をつけることの方がより大事なことだったのではないだろうか。

これまで、「忘れられた日本人」と似た種類の本は今まで他に読んだことが無かったので、とても新鮮で自分の新しい興味の領域を開拓できた気持ちであった。これを機に、これからも社会人類学系統の本も積極的に読んでいきたいと思う。

【ホンヨミ!0105⑥】考えなしの行動?【戸高】

ジェーン・フルトン・スーリ著、森博嗣訳『考えなしの行動?』

 人間が何気なくとる行動に、私たちが住む生活を豊かに、また楽しく、そして幸せにするためのヒントが隠されている。

 両手が塞がっているとっさの時に、私たちは荷物を服のポケットにかけたりするときがある。本来ポケットの機能はものを支えるということではない。しかし、そういった機能が無意識のうちに人によって出されるのだ。
 ならば他のものを支えるための家具等に、ポケットのような収納機能もたしてみてはどうだろうか。こういった風に、人間の考えなしの行動を注意深く観察していくことで便利な世の中になっていく。

 また、考えなしの行動と少し関連して、人の心を少しあたたかくし、行動に促すデザインがあったのでそれを2つ紹介しよう。



 1つ目は野菜ジュースの紙パックをたたんで捨てた時に見えてくる1節。「たたんでくれてありがとう」
 パックをたたんで捨てる理由は僕は知りません(かさばらないとか、リサイクルに役立つとかの理由?)が、たたんで捨てることを推奨されていますよね。
 しかし、何の気なしにジュースを飲んで何の気なしに紙パックを捨てている人が多いと思います。つまり考えなしに、人は紙パックをたたむことなく捨てているのです(これはゴミ箱等を写真におさめてみたらすぐわかることです。自分の生活を振り返ってみても可。)。

 しかし、カゴメの野菜ジュースにはきちんとたたんで捨てると「ありがとう」の言葉が。これを1度知ってしまうと、どうしてもたたんで捨てたくなってしまうのは人の性だと思います。
 人は簡単に環境や人助けのためのなるのならば、貢献したいという思いは強いんだと思います。ミネラルウォーターのボルビックが「1ℓfor10ℓ」と題して、アフリカの子供達のために水を提供するキャンペーンを行っていた際、どの水を買おうかと思ってボルビックを手にした人は多かったのではないでしょうか。
 このように、考えなしに捨てられているゴミから、社会貢献にまでつなげることが可能となるのです。

 http://www.youtube.com/watch?v=2lXh2n0aPyw

 2つ目は、エスカレータと階段があって、どうすれば人は階段を利用するようになるのか。といった問題意識からきている。
 人は、急いでなくとも多くがエスカレータを利用する。速いし楽だからだろう。

 そんな考えなしにエスカレータの利用者が圧倒的に多いことを観察していると、じゃあどうすれば階段を使ってもらえるようになるのかといった問題意識が出てくる。
 その解決策として先ほどの動画が出てくる。階段をピアノのようにし、歩行者に楽しんでもらえるようデザインするのだ。
 これで本来、エスカレータよりも上るのに疲れ、苦しく、おもしろくなかった階段が、「楽しさ」という要素が追加されるだけで、歩行者の多くが階段を利用するようになった。
 こうすることで、例えば通勤ラッシュ時以外はエスカレータの電源をとめ、楽しく階段を利用してもらうようにすれば、電気代の節約にもなり、またエコにもつながる。

 人の考えなしの行動は、社会貢献、また楽しい体験につながる重要な行動である。
 そうした些細な行動に敏感になれる目と頭を常に持てるよう、意識して生きていきたい。

【ホンヨミ!0105⑥】そして、ひと粒のひかり【田島】

そして、ひと粒のひかり

ラテンアメリカのコロンビアにある花工場で働く若い女性マリアが、苦しい現状から脱出するため麻薬の運び屋となりアメリカへと渡る物語。本でしか知らなかった、コロンビアという国の、飢餓とまではいかないものの先進国に這い上がることが出来ない絶対的な貧しさの壁、経済的な閉塞感がマリアの生活を通して映像で伝わってくる。

現在南米から危険を冒してアメリカに渡る者、金のために麻薬密売など犯罪に手を染める者はあとをたたないという。そのままアメリカに定住するものは「ヒスパニック」と呼ばれ、アメリカで新たな経済圏を確立しつつある。人間は資本主義で本当に幸せになることができるのだろうか。資本主義のあるところに必ず貧困は発生し、より豊かな方向へ飽くなき移動は続いていく。人間の思想には多様性があることが望ましいが、市場が社会主義を飲み込んだように、資本主義は世界を巻き込み続ける。豊かさを指向して旅立つマリアの姿に、何か腑に落ちないものも感じてしまった。

子どもの頃は純粋にアメリカはすごいと思っていたけれども、ヒスパニックの問題や麻薬の問題などアメリカの様々な社会問題を見るにつけ、実はこの国は破綻しているのではないかとの疑念も持った。

【ホンヨミ!0105⑤】文化遺産の社会学【戸高】

小川伸彦、脇田健一、アンリ・ピエールジュディ、山泰幸著、荻野昌弘編『文化遺産の社会学』

 文化遺産と記憶に関する本。
 文化遺産といっても、それは仏像や遺跡といった、世界遺産や国宝のみをさすのではない。景観や、戦争の惨劇を表す負の遺産(それも原爆ドームなどだけではなく、焼け残った遺品なども)、さらに水俣病などの公害の爪痕を残す資料等もここでは文化遺産といっている。

 それでは文化遺産と記憶がどうつながってくるのか?それは文化遺産が博物館といった場所に、実際それがおかれていた文脈から切り取られて保存されることで、よりその場での体験での記憶と結びついて保存されるからだ。

 戦争だと、原爆が落ちた時の時間でとまった時計はその時に原爆が落ち、熱風が時計を狂わせ時間をその時のまま封印したといった事象を想起させる。
 このことは実際にその出来事を体験していない人にも当時の情景を想起させることを可能とする。記憶にその人が実際に体験しているか否かといったことは関係なさない場合もあるのだ。

 また記憶というものは不変のものではない。記憶はその都度、想起される場所や時によって再構成され違ってくる。
 記憶を想起するものはもちろん文化遺産にとどまらず、ただの街の風景であったり、音楽や味覚、また臭い等でも記憶は想起される。人間は五感の全てを用いて自分の身の回りにある体験を記憶しようとしているのだ。
 
 私は就職活動を初めて、さまざまな場所に足を運ぶようになった。就職活動は楽しい時もあるが、もちろんつらい時もある。そんな時、「前に友達とこの駅にきたなー。」「このビルは昔こんなことやったあの場所とめっちゃ近くてなんか思い出すからいやだなー。」とか昔を思い返しては懐かしみ、ちょっとした活力にしている自分がいる。
 その時想起している記憶、思い出は実際に昔体験したものとは違っている。記憶はその時の心境などにおいて変わってくるからだ。あくまでも記憶は再構成されるものであり、保存されるものではない。

 ちょっとした記憶でもその日を生きる活力になる。思い出はいつだってやさしい。1日1日、一瞬一瞬を大事に日々生きていきたい。

【ホンヨミ!0105⑤】サルバドールの朝【田島】

サルバドールの朝

フランコによるスペイン独裁体制時代を描いた作品。私は今までフランコ政権に対する知識が乏しく、スペインに対しても情熱と闘牛の国という文化面からの明るいイメージしか持っていなかった。しかし内戦からの歴史を知ると、スペインという国が抱えた闇と危うさを感じる。またこの作品の中には禁止されたカスティーリャ語を密かに話すシーンなどが描かれ、スペインの地域主義も感じることができた。

この映画は実話をもとにした作品であり、サルバドールというフランコ政権のもとで最後に死刑になった実在の青年を描いた物語である。サルバドールは反政府活動と、警官殺し(正当防衛に近い)の罪で死刑となる。実際警官たちともみ合ったシーンをみていると、ゲリラ側も警官側も同じ死者を出しているのに、警察側の罪は問われずサルバドールのみが死刑になることを素直に「おかしなことだなあ」と感じてしまった。このフランコ政権のような理不尽で抑圧的な国家や警察の姿を見ると、私たちは国家という権力の強大さを再認識する。現代は法律によって市民から武器を奪い無用な暴力を禁止している時代である。武器、つまり「力」という名前の「怪物」は警察という国家権力に集中している。「法律」とは現代において怪物を抑制し(市民)、また逆に怪物を開放できる(警察)魔法使いのようなものだなあと感じた。だからこそ、法律家は天秤でなければならないし、私たちは魔法使いが不公平なくちゃんとをしているか監視していかなければならない。

現在スペインではこの映画を始め、フランコ時代を再認識・再構成しようという試みが進んでいるらしい。現実が客観的な「歴史」になるには時間を要する。しかし、それを待っているだけでは現実の問題を解決することはできない。歴史を勉強することは、過去に陶酔することではなく、現在によりよく向き合うための方法とするべきだと思う。

2010年1月5日火曜日

【ホンヨミ!0105④】荒巻の続々世界史の見取り図 近代アジア編【田島】

『名人の授業 荒巻の続々世界史の見取り図 近代アジア編』荒巻豊志著

「今ここ」を知ろうとすると必ず「過去」に直面する。現在は空中に浮かんでいるのではなく、過去の積み重ねの上に連続しているものである。金ゼミなどを通じて新しい出来事を研究しようとすればするほど、もっと歴史を知りたいという気持ちが湧いてくる。

本書は受験生向けに書かれた参考書であるが、受験生以外にとっても国際理解に大いに役に立つ本であると思う。非常にわかりやすく、イメージしやすいように書かれているため参考書は大学入学も十分お世話になることができる。本書の特徴は「見取り図」とあるように、実際の地理と関連付けながら歴史を見ていくことにある。単に歴史の本を読んでいるだけでは、地理的理解は欠けてしまいがちになるが、地理と歴史・国際関係とは密接に関係しており、より深く理解するために非常によい。

この巻は近代以後のアジア・アフリカの歴史を概略を辿っているが、先日本で勉強したラテンアメリカの歴史とも共通する要素が多くあり興味深かった。近代の植民地支配は植民地の自給自足経済を破壊し、一次産業の輸出国に落とし込めた。現代植民地は独立を達成したが、経済の観点からは未だ支配から脱することが出来ていないのではないか。先進国の下請け的作業を担う第三世界の国々は経済的に未だ脆弱だ。

また本書で印象的だった部分は、近代はヨーロッパが覇権を握っていたため「植民地を持つこと」が当たり前だった。しかし彼らから覇権を奪おうと「民族自決」の重要性を訴えたアメリカ・ソ連がWWⅡ以降覇権を手にすると「植民地を持たないこと」が当たり前となった、という部分だ。今我々が賛美している民主主義・資本主義、それは自分たちが選択したものというよりも覇権国が作り出したパラダイムに過ぎない。何百年後にはこのパラダイムも否定されている可能性があるわけで、そういう意味で私たちは「常識」を疑う必要があると思った。歴史を振り返ることを常に忘れず、自分の常識に対する客観視を常にもって行きたい。

【ホンヨミ!0105⑥】忘れられた日本人【栫井】

忘れられた日本人/宮本常一


戦前から戦後の高度経済成長期までにかけて、日本中をくまなく歩き、フィールドワークを続けた民俗学者、宮本常一の著書。
前期に学部の文化人類学の課題で読んだ本だが、再度人間観察という視点で読み直してみた。今叫ばれている消費者型のマーケティングは、消費者観察が肝となる。その元祖として、著者の人間観察の手法から何か学ぶことは出来ないだろうかと考えた。

宮本常一の研究は、実際に現地に赴き、人々に混じって生活し、人々の話を聞いて、肌で文化を感じて行われる。文献調査を主にし、「安楽椅子の人類学」と言われるフレイザーの金枝篇とは全く違う、実証的な文化研究である。
彼が話を聞くのは、その土地に住む老人たちである。隠居した老人たちは、半生の記憶を語り継ぐのが仕事だ。彼らの持つ記憶が、語り継がれて歴史となる。公式の文献には収まりきらないこのような歴史の形が、歴史の側面図であり、私たちの文化に根付いている。
たとえば、昔の村落には寄り合いという文化があった。日本史の教科書をめくれば、どんなものであったか、客観的な歴史的役割を知ることは出来る。しかし、それは文化を理解することではない。文化は人と密着して形成される。文化と人が切り離せないものならば、人を理解することなしに、文化は理解できない。著者も、寄り合いの現場に行き、輪に入って話を聞くことで寄り合いを語ることができたのだろう。

消費者を理解することは、その人の背景にある文化を理解することだ。
そのためには、宮本常一が行ったような密着した人間観察を行う必要がある。実際にその輪に入り、よく話を聞くことだ。宮本常一が老人に話を聞きに行ったように、企業は消費者に話を聞きに行かなければならない。今、そのためのツールはたくさん用意されている。「安楽椅子のマーケティング」になってしまわないように、自分の手足を使った調査が求められているのだ。

【ホンヨミ!0105③】深い河【田島】

「深い河」遠藤周作著

遠藤周作は好きな作家のうちの一人で、ひさしぶりに彼の小説を手にしてみた。
この「深い河」は彼の代表作の一つであるが、そのタイトルの通り、とてもおおいなるものを題材とした小説であると思う。しかし文体は非常に読みやすく、純文学特有のとっつきにくさが無くてよい。

この小説は「大津」というインドの神父の姿を通して、人間の愛というものを提起した小説であると思う。「神父」「愛」などと書くと鼻白む反応もあるだろうが、その反応を「美津子」が代行する。大津は『神は存在というより、働きです。』と語る。大津の言う愛の働きは、この作品の中で様々なキャラクターを通じて表現されている。磯部の妻、沼田の悲しみをすくいあげてくれた犬や鳥たち、木口を励ましたガストン、ヒンズー教のチャームンダー女神。キリスト教の家庭で育った大津は、「愛」への信頼を身近なキリスト教に置き換えたのである。作者は、人間は誰でも心のよりどころを求める弱い存在であり、それを宗教や家族、様々なものが包みこんで生きているのだということを伝えたかったのではないだろうか。宗教の種類にとらわれない愛の普遍性である。『それしか・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは。』という作中に登場するマザーテレサの尼たちの答えが胸に響いた。


現代世界では異なる宗教による対立が数多く起きている。この作品の大津のように、信仰を「実際的存在」から「働き」に置き換えて考えれば、自分の宗教も相手の宗教も少なからず同じ要素を有していることに気がつくだろう。美津子はガンジス河に入りこう呟いている。『信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の河の深い悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています。』この深い河のような大きな視野で捉えることが大切なのかなと感じた。

【ホンヨミ!0105②】ラテンアメリカ経済論【田島】

「ラテンアメリカ経済論」西島章次ら著

私は第二外国語でスペイン語を選択している。ラテンアメリカの映画や歌を授業で鑑賞する機会が多いのだが、そのどれにもラテンアメリカの「貧困」のムードが重低音のように流れていた。炭鉱等での過酷な労働に苦しむ人々、マス工場で低賃金で働く若者たち、危険を冒してアメリカに渡ってヒスパニックとなる者。中世以降世界は植民者と植民地に分けられ、ラテンアメリカもアジアやアフリカと同様に植民地としての運命を辿ったが、地理的にアメリカと近く、資本主義への依存と癒着が見られるのがラテンアメリカ地域の固有性ではないだろうか。

私は一年間の授業を通して「ラテンアメリカは何故貧しいのか」「ラテンアメリカは本当に貧しいのか」の二点の疑問を持ってこの本を読み始めた。内容には経済学の概念が多く、必修のマクロ経済学を適当に勉強してしまった私には大変だったが、これを機に勉強しなおすつもりでいたい。またこれからもいろんなラテンアメリカの本を読んでいきたい。

この本を読んで感じたことは、新興国の経済の脆弱性や、経済に対する政府の影響力の大きさの強さである。ラテンアメリカで「失われた10年」と呼ばれる1980年代の経済危機はラテンアメリカ政府が債務やインフレに対して有効な手立てを打ち出せなかったことに起因している。「市場の力」のみでは貧困は解決されることがない。自由経済化によってラテンアメリカが成長しつつあるのは確かであるが、資本主義が全ての国に適応されうる最上の価値であるかは疑問を持ち、慎重になる必要性があると感じた。
現代人はお金なくしては生きることができない。今まで避けてきた経済だけれども、社会のことを知るためにもっと勉強しなくてはいけないと感じた。

【ホンヨミ!0105①】やさしさの精神病理【田島】

「やさしさの精神病理」大平健著

著者は現代人の「やさしさ」とはいわば人付き合いの技能であり、具体的で実践可能なことだと述べている。本書は「やさしさ」という言葉の使われ方の変化を通して、「出来るだけ他人の心に立ち入らず滑らかな人間関係を築こうとする」現代人の葛藤への脆弱性を指摘している。今回はtwitterなどのWEB上のコミュニケーションツールを本書の観点を利用して考えてみたい。


この本は10年以上前に出版された本であるが、その指摘は未だ新しく身近に感じられる。この本のなかで著者はポケベルについて触れ、「電話したい気持ち」のみを送るこの機械を「電話に伴う、相手の都合を考える葛藤を軽減する受身になるための道具」と指摘した。やがてポケベルは携帯メールの発展によって廃れた。メールは電話よりも時間性に束縛されない通信手段である。あくまで通話の補助的存在だったポケベルは、さらに通信の葛藤を解消してくれるメールにとって変わられたと考察できる。

人間誰しも自己表現をしたいもので、それと相反するように「相手にとって興味がなかったら、めんどくさいと思われたら嫌だ」という葛藤も生じる。人は相手によって話題を使い分ける。インターネットというライブ感が薄く、ストックがきき、不特定多数に公開できるツールは、ブログなど一部この葛藤を解消することが可能になる。ただ「mixi疲れ」という言葉が象徴するように、その人間関係が現実世界と同化するとまた再び葛藤に引き戻されるようだ。

そこで登場したのがtwitterではないのか。「つぶやき」とは上手い表現である。twitter上には、「つぶやき」だからどんなにささいな自己表現も許されるという雰囲気が形成されている。TL上に現れては消えていく大量のつぶやきは興味のある誰かが反応するかもしれないし、しないかもしれない。しかし「つぶやき」だから何の問題もないわけである。twitterは情報通信ツールとして非常に素晴らしいであり、同時に本書が指摘する自己表現がしたいけど苦手な「やさしい」現代人にやさしいSNSでもあると思う。

日本ではこのtwitterは情報収集の側面とSNSの側面どちらでより広まるのであろうか。現在twitterは「珍しいもの好き」「時流に敏感な人々」は知っているが、大衆には浸透しきっていない感覚がある。携帯からのアクセスをより便利に身近にし、現在mixiを利用している若者を取り込めばもっと浸透すると私は思う。しかし知ってる友だちがいないSNSは利用されない。どうにかして最初の若者を取り込むことができれば、twitterを彼らのハブ化させることができる。わたしたちはゼミの活動の一環としてみんなでtwitterを始めたが、それはかなりの例外である。ならどうするか?芸能プロダクションと提携し、嵐など学生に人気な芸能人がもっとtwitterからつぶやきを発すれば結構ウケるのではないか?

【ホンヨミ!0105⑤】グッドデザインカンパニーの仕事【栫井】

グッドデザインカンパニーの仕事/水野学


グッドデザインカンパニー代表、アートディレクターの水野学さんの本。グッドデザインカンパニーの始動以来10年間の仕事とそこに秘められたこだわりをひもときながら、水野さんのモノに対する姿勢を語っていく。

大局と詳細の両方を丁寧に見ることが大事なのだと感じた。
プロダクトひとつひとつ、ロゴのデザインひとつひとつ、で見るのではなく、プロダクトがどう人に伝わっていくのか、その過程全体を見ていくこと。プロダクト単体ではなく、ブランド全体のイメージをどう構成していくかをしっかり見据えて設計すること。そしてブランドのイメージを正確に表現するために、細かいディティールにまで気をめぐらすこと。
全体と部分、両方に凝るためには、一貫したコンセプトが必要になる。なんとなくかっこいいから、とかおもしろいと思ったから作るのではなくて、しっかりとしたコンセプトを持った上での設計が、ブランドイメージを確立させる。
ならば、コンセプトはどうやって定めていくのか。
「なぜ?」を突き詰めることだ。どうしてそれが必要なのか、それがもたらすものは何なのか、考えることは自分の感性も磨いていく。
ブランディングとは、人に対して、どのような感触を与えられるかを考えることだと思う。プロダクトの効用を越えて、そのブランドしか与えられない体験を作り上げることだ。それがコンピューターには出来ない、熟考と感性勝負の世界ではないだろうか。

水野さん、そしてグッドデザインカンパニーの目標は「よりよくすること」だという。
よりよい人の生活をプレゼントするために、作る側は何が出来るのだろうか。それを学ぶことが出来たように思った。

【ホンヨミ!0105②】2030年メディアのかたち【岸本】


 メディアコムでも授業を担当されている元日経の坪田知己さんによる一冊。
 インターネットの発達の歴史やメディア史などのマクロな視点と記者の足を活かしたミクロな視点が混ざっていて面白いです。

この本で述べられていることは以下の4つです

1. 情報社会の主導権は供給側から需要側へ

2. メディアと社会・組織の構造は伴って変化する

3. メディアは「多対一」へ変化していく

4. 情報の信頼の確保



1. 情報社会の主導権は供給側から需要側へ

 これは他ならないインターネットの普及による情報の爆発によって共有過多になったために主導権が移ったと言えます。



2. メディアと社会・組織の構造は伴って変化する

 これは以下の図にまとめられます。メディアと構造の変化のどちらが先かは一概には言えませんが、伴って変化するということには一定の説得力があります。

3. メディアは「多対一」へ変化していく

 これは1と2の帰結であると言えます。

 

 一対多:マスメディア(情報は一方通行)

 多対多:ネットメディア(双方向)

 多対一:エージェントメディア(また一方通行?)

 

 現状のネットメディアでは情報は双方向に流れるようになり、また必要な情報も手に入りやすくはなりました。しかし、意思伝達、あるいは検索のための取引費用が膨大になってしまいました。

 そのため必要な情報のみをより効率的に伝える必要が出てきました。これは編者となる緩衝剤が必要であるということです。こうした編者のことを筆者はエージェントと呼んでいます。

 この編者は様々な方法で既に実現していると言えるでしょう。例えば、ニュースサイトのカスタマイズ、あるいはRSSリーダー、またあるいはクラウドソーシングによるタグ付けなどです。タグ付けの方法についても様々あり、弟子筋にあたる濱野智史さんのこの論考も興味深いです。



4. 情報の信頼の確保

 筆者はまず情報の信頼を4つに分類しています


 信頼の4パターン(一部改)

 - 権威による信頼

 - 「世間」による信頼

 - 友人による信頼

 - 自己の体験による信頼


 これから従来のメディアだけでなく市民メディアがいかにして信頼を築き従来のメディアの代替メディアとなることができるかということを論じています。



 この本を読んでいて常に頭の中にあったのはTwitterのことでした。Twitterが万能なエージェントを務め、また従来のメディアに代替するとまでは思いませんが、こうしたマイクロブロギングでなおかつ一方的に「フォロー」するという仕組み(アーキテクチャ)が次世代のメディアをある程度予見していると言えるでしょう。『Twitter社会論』で登場した属人性という概念が信頼を生み、ニュースソース、編集者としての社会的な価値を持つことを考えると、現在のTwitter及び同様のマイクロブログサービスのアーキテクチャ及び普及の過程、ロックイン戦略などを比較することで今後のメディアのあり方を予言することが出来るのではないかと考えました。

2010年1月4日月曜日

【ホンヨミ!0105⑥】日本文化を英語で紹介する事典【大賀】

杉浦洋一・ジョンKキレスピー著「日本文化を英語で紹介する事典」(2004年、ナツメ社)

***

 「日本人は何の宗教を信仰していますか?」「『粋』とは何ですか?」「日本人はどうして『米』が好きなのですか?」―もしあなたが海外へ行き、こんなことを外国の人々から尋ねられたらどうするか。大半の人は答えに詰まるだろう。自分の身の回りに当たり前に存在している物事の意味を説明することは至難の業だ。日本語で説明できるかどうかすらも危ういのに、ましてや外国語で説明するとなると…。本書はそんな私たちのための本である。
 祭事、食べ物、生活習慣などの各テーマごとに、いわゆる「日本文化」と言える物事をひとつひとつ丁寧に解説している。ただ英文が並んでいるだけではなく、対応する日本語も書かれているため、英作文や読解の練習にもなる。私自身は、本書を音読するようにしていた。日本文化に対する理解を深めながら英語を学ぶことができるとは、一石二鳥である。
 実は、海外留学のたびに持って行っていたものの、まともに読んでいなかった本のひとつ。この冬休みに読み返すごとができて良かったと素直に思う。今度海外に行く時は、本書に頼らずとも日本文化の説明ができるようになっていたい。