2010年1月5日火曜日
【ホンヨミ!0105⑥】ご冗談でしょう、ファインマンさん【金光】
1965年、ノーベル物理学賞を受賞したアメリカ物理学者のユーモアあふれる伝記。
彼がファインマンであった理由を私があげると、こうなる。
彼は
・お金より名声よりも、物理が好きだった
・理論ではなく、実際に使える物理が好きだった、そして人よりもできた
・常に好奇心が旺盛だった
・相手がだれでも物おじせずに物を言う人だった
・人を驚かせるのが好きで、負けず嫌いだった
・女好きだった
そして、その結果彼の周りには彼を助ける人がたくさんいたこと、はとても大きいと思う。
怖いもの知らずで目がきらきらした少年のようだけれど、頭の回転が速くて知識がとても豊富でユーモア大好きという印象を受けた。彼はあまりに高い報酬の仕事を、自分に合わないと断ったりもしている。また、相手がだれであれ物理の話になるとそんなことは忘れてずばずばと意見を述べる。そんな人柄だからこそ、上にもかわいがられ(もちろん当人はそんなことを狙っていない)良い環境で研究や勉強ができた。
もう一つ、彼は教育の仕事もとても好いていた。研究の傍ら学生を前にして講義を行うとき、試験の点数も素晴らしく、教科書の丸暗記には長けているのに同じことを実践的にして聞くと答えられない学生たちを目の当たりにして驚愕してしまう。彼は使える物理が好きで、そこにこそ面白さがあると思っていたから。そこで彼は質問することと自分の頭で考え手で実践することを口を酸っぱくして伝える。これは今の自分にもあてはまることだと思う。法律でも丸暗記ではなく自分の日常生活にも当てはめて考えることでぐんと面白く、理解も深まると思った。
彼は三回結婚し、それ以外にも女性が好きというエピソードは多数登場した。最近歴史上の偉人を読んでいて思うのは、偉人ほど女好きではないかという仮説。ゲバラやマンデラなど、日本と外国の違いもあるかもしれないが、離婚はそれほど珍しくないし、一度離婚してもまた他の人と、結婚に至るような恋愛をするんだなと思った。昨年の学部の授業で、教授がSTに「君、恋愛をしなさい」と言っていた。まだ検証が必要な仮説だが、恋愛は人生を豊かにするのかもしれないと思った。
ファインマンの魅力は実際に読んだほうが伝わるけれど、こんなふうに生きたいと素直に思えるような人物像だった。
【ホンヨミ!0105⑤】サルバドールの朝【金光】
スペイン内戦時代、フランコ独裁政権に抵抗した若者たち。そしてそれを武力で封じ込める政府、警察。スペイン語以外は禁止されていた。サルバドールも、政府に立ちむかったそんな若者の一人。MILという組織で、「絶対に捕まらない」というグループの理念のもとに銀行から資金を奪い、さまざまは活動を繰り広げた。最初は波に乗って銀行強盗もうまくいき資金も回っていたが、警察にも目をつけられ、だんだん苦しくなる。そしてついにある日、計画が失敗し、サルバドールはもみ合いの最中に警官を銃で殺してしまう。当時の「警官殺し」に対するイメージはとても悪く、彼のもともとの立場もあって弁護活動はなかなかうまくいかない。担当弁護人は弁護士としての自分のイメージが悪くなることも承知で、全力で彼を弁護。
しかし残酷にも死刑執行の命が下る。
執行まではあと12時間。
その間にフランコや法務大臣に恩赦を取り付けられれば彼の命は、そして市民の希望は救われる。胸の中の、今にも消えそうなかすかな希望の火だけを頼りに、なんとか精神状態を保とうとするサルバトール。電話を受けて駆け付けた彼の3人の姉妹。弁護士協会で電話をかけまくるよう指示する担当弁護人。立場上なにも言えないのがもどかしく、サルバトールを見つめる刑務所員。冷酷な顔で彼の墓地の有無を姉妹に尋ねる係員。そして、一人、留守番をさせられた、サルバトールを兄弟一慕っていたまだ幼い妹。
刻一刻とまるで音をたてるように無情に過ぎる時間。夜が明け、いつもと同じような朝が来る。しかし、そこで彼は独裁政権最後の死刑者となる――
その数時間の描写が何よりも重く辛かった。ピストルで人が殺される。死刑で処罰される。人の命の重みは同じ。でも、自分の死、目の前の人、家族、兄弟の死の瞬間を知りながら迎えることがこんなにもやりきれないものなんて。もう二度と生きたこの人の体に触れることはできない、声も聞くことができない。思い出も作れない。死を待つ人は必死に生きようとする。その気持ちを知って、でも自分には命が残されていて、でも何もしてあげられない。命を奪おうとしているのも同じ人間。その流れを止めることはできない。法に従う限り。
そういえばこういうことに直面したことがないんだと思った。すごくショッキングで、涙が止まらなかった。単純に、死について。そしてこのような時代背景や死刑という制度について。日本には死刑制度がある。冤罪は許されるものではない。今まで自分の想像が及んでいなかった一面を見て、うまく言葉にならないけれど、すごく苦しかった。
【ホンヨミ!0105④】バルサとレアル スペイン・サッカー物語 【金光】
バルサはFCバルセロナ、レアルはレアルマドリード。言わずと知れたスペインのサッカーのクラブチーム。
なぜ、この2チームが取り上げられたかというと、両者の試合はエルクラシコと言われ、スペインのサッカーの試合の中でも特に盛り上がる一戦だからである。そしてその裏には敵対関係の長い歴史が詰まっている。
スペインのサッカーは日本のそれとは比べ物にならないほど地域に根付いている。日本の阪神、巨人ファンよりもずっと、チームと地元住民との結びつきは強く、女が前に出ることがよしとされていないところでもサッカーの話は老若男女みなそれぞれが自説を展開する。
歴史で言うと、バルセロナの方が2年早く誕生した。しかしもともとはスポーツ全般を目的にしておりサッカーに特にこたわりはなかったようだ。両者の対決は1902年に始まる。首都マドリードに本拠地を置くFCマドリードは、時の独裁者フランコによる干渉、影響を強く受ける。対するバルセロナはそれに対する勢力として力をつける。当時はスペイン語以外の公用語が禁止されており、カタルーニャ地方発祥のバルセロナやバスク人純血主義をとるアスレチック・ビルバオなどは弾圧を受けた。バルセロナはとてもおおらかかる自己愛が強い民族で、中央政府による圧力にもめげずに力を伸ばした。バルセロナの選手がマドリードに巨額の金と共に移籍する、審判が八百長を働いた疑惑がある、などの圧力にもめげずに力を伸ばす。
地元ごとに団結して熱くなるこのサッカーへの熱気を利用しようとしたフランコにもうなずける。方言というレベルではなく、根本的な言語が違うほど(バスクの言葉はスペイン語と何の共通点もないと言われている)同じ国の中で特色が違い、誇りを持ってチームを応援する、その感覚は今の自分には想像しても実感がわかない。でも、「銀河軍団」マドリードに対抗できたのは、バルセロナ地方のあの独特の、自分たちが一番だ!というふてぶてしいまでに純粋な雰囲気があったからだと思う。フランコはおそらく、二大勢力をスペインの中でイメージづけたかったのだろう。必ずしも相手はバルセロナでなくてはならないことはなかったはずだ。フェア精神が命のスポーツにおいて、八百長、故意による誤審は許されない。しかし、そのような内戦時代を経て、現在両チームは世界を率いる大きなチームになっている。マドリードは四期連続で収入の多いサッカーチームでもある。金持ちと庶民派チームの対戦を、クラシコと呼ぶのはブラジルやアルゼンチンにもあるらしい。レアルとバルサは両チームとも有名で経済力もあるが、フランコ時代の構図はまさにそうだったと思う。民衆は、庶民派に味方し、ゲームは熱く盛り上がる。
FIFAワールドカップが始まった今、サッカーをこのような歴史的な観点で見るのもいいと思った。
2010年1月3日日曜日
[書評0105③]人間機械論[竹内]
サイバネティックスとは、メッセージの考える際に、機械や社会を制御する通報や心理学など広い範囲でとらえた言葉である。通信基幹が発達したいま、人間から機械、機械から人間の間における通報がますます大きな役割になってきている。
コミュニケーション、通報は基本的に外部との情報の交換によって生まれる。コミュニケーションは外界に影響を及ぼすと同時に、自己にも影響を及ぼす。その ため、逐次自己を調整していかなければ、自己のエントロピーは増大していく。エントロピーとは、何もしない状態ではカオスに向かうことである。これに反す る行為を反エントロピー行為と呼ぶ。例えば、死に向かう人間が何らかの治療等を施し、死からのがれようとする行為がこれにあたる。
反エントロピー行為は必要なものである。これがなければ、カオスに陥り、コミュニケーションが制御不可能になるからだ。反エントロピー行為に必要なもの は、フィードバックだ。フィードバックは情報の出力をまた入力に還元するメカニズムを指す。随時、自己のアウトプットを監視し、自己を調節していくことが 求められる。
サイバネティクスの概念がいまいち理解できなかった。難しい用語が多くでてきているが、もう少しわかりやすい言い回しがあるように思えた。他の文献を読むなどして理解を深めていきたい。
コミュニケーションが容易になったことにより、コミュニケーションの機会が増え、ほうっておくとカオスに向かうスピードが上がるというのは納得出来た。これから、ますます機械とコミュニケーションが重要性を増してくると思う。機械と人間はそれぞれ良いところが異なるので、互いに補完もしくは監視していくことが良いのではないだろうか。機械と人間がそれぞれのフィードバックを監視し合うべきだろう。その中で、フィードバックを迅速に解析し、自己調整へスムーズにつなげる仕組みが求められると感じた。
2009年12月30日水曜日
【ホンヨミ!0105③】脳の中にいる天才【金光】
・多重人格障害において、いくら多くの人格を持っていても、それらは、子供時代のトラウマにアクセスできる人格と、それができない人格に分けられる
・誰もが天才と認める有名人は、人格の特にその社会的な側面に注目すべき 天才が部屋に閉じ込められていても何も起きない 天才を挑戦へと向かわせるためには観客と、非常に批判的な顧客が必要 なぜなら 相補性、動機、対話と協力 つまり社会的な要素とプロセスが重要
・システム生物学の理論からみる効果あるがん治療法
・ガンの強靭さを制御すべき 腫瘍の大きさの変化ではなく。
・マインドセット(思い込み)を遮断することで創造性が生まれる
・成績より重要なのはいかに苦闘するか、逆境から立ち直るか
・創造性はひとりひとりに異なる
・創造性は反抗ないと生まれない ブレークスルーは反抗から実現するから
訳者あとがきで、最近はすべてがわかりやすい表面的な本ばかりが売れているが、たまにはこういった「硬派」な本があってもいいのでは、とあったように幅広い専門分野で読みごたえのある本だった。
とても
身近な話では、成績よりもいかにリスクをとることができて自らリスクをとろうとすることが重要ということ。とはいえ、人間は生まれつき自分の周りに受け入れられようと、目立った行動を避けてマネをする。だから、普通ではない両親に育てられれば、自分も普通ではない人間になることで両親に受け入れられようとする。これはきれいごとにも聞こえるけれど、普通ではない=誰もがもっている、他の人にはない何かを見つけてそこを伸ばすことは大切だと思う。これを人生の早くに見つけた人が”勝ち組”と言われる人だと思う。自分の中のものに気付かないまま、死んでいく人も多いと思う。
マインドセットの遮断は、脳の左側頭葉の遮断という実験に基づいて主張されていた。クリエイティブには一種の反抗だ、という他の研究者の主張と重なると思う。「無意識を意識する」とも言い換えられるのではないか。日常で心がけるのが難しいからこそ「無意識」だけれど、創造性には不可欠。
【ホンヨミ!0105②】伝わるのルール【金光】
クリエイティブディレクターという人の本。しかもすごく新しい、話題も新しい旬な本。
早稲田大学法学部出身だそうです。美大、芸大かと思いました。年末に広告特殊の授業でお話を聞いた、福里真一さんもそうでした。芸大出身じゃないと慣れないというのは、思いこみだったようです。
・”経験の記憶”は一種のアイディアデータベース。
ふだんから、ふと感じたことや、なにかに対して起こった自分のなかのささいな反応なんかをきちんと見つけて覚えておくこと
・打ち合わせのときは 全員からいい反応が出てくるまで、会議を続ける
・ビッグアイディアがしっかちしているキャンペーンはぶれない
そのビッグアイディアを周辺を使って伝えること
・人間の発想は直感的に見えても、じつは論理的に説明ができる理由がある
・メッセージは表現で伝えるもの
根本があればそれをどんな形で伝えるか。その根本の見つけ方、切り口の伝え方がミソらしい。
プロは、前例とかぶっちゃいけない、いいコンセプトがあってもそれが商品や自社ブランドと関係ないと採用しない、などいろんな制約が多い。かぶっちゃいけないだけなら、後の時代に考えるほど不利になりそうだけれど、周辺(メディアなど)はの種類は年々多様化していく一方。今までできなかったことも技術的に形にできることのほうが多い。
だから発想。「新しいものを作る必要はない。今あるものから発見する」と、小山さんが言っていた。頭を使って理解しないと伝わらないようなものは、広まらない。今受けている広告特殊の授業は、贅沢な授業なんだなと思った。加えて小山さんは私たちのアイディアでも注文をつける前にほめてくれる、いいとこを探してくれるところが素敵だと思った。
打ち合わせの時に、結論を急がずに全員の納得を探す、そこまで時間をじっくりかけられるのはなんだかいいと思う。こんなに裏の裏を考えて、いかにその商品を伝えるか、で作られている広告。テレビの現場を見たときもそう思った。相手の気持ちを観察し、分析できる洞察力が、実は発想力より大切なんじゃないのかなと思った。
【ホンヨミ!0105①】縮み志向の日本人【金光】
日本人は縮み志向。というのが筆者の主張。
題名からすぐにわかるけれど、これが意外と奥が深い。
扇子や折り畳み傘、一寸法師や正座、盆栽など日本はいろいろなものが他国のそれらと比べると縮まったサイズらしい。しかしこの本ではそんなスケールだけでなく、日本の庭やら茶道、さらには人間の行動までを縮み志向に当てはめて論じている。
日本人は「座」を作って、小さいところに集まって何かをするのは得意だが、大舞台に行くとどうすればいいかわからなくなってしまうとあった。今日偶然見た番組では小倉さんが、毎晩必ずトイレで本を読むと言っていた。筆者によると狭いところに縮こまっているほうが心が落ち着く民族、だそうだ。
この本では、日本はそのような縮み志向を生かして世界でも生き抜いていくべきであり、慣れない拡大路線を進もうとするからひずみが出ると書いてある。日本は縮みの技術には長けていても、それは縮ませるような対象を他から与えられないと発揮できない。相手を受けて、それを超えられるようにこつこつと自国に取り込んで伸びてきた国である。これは国だけでなく、個人的にも思い当たる節がある。自分からは動けないし弱いけれど、相手を受け身でとらえるとそれを吸収し、自分のものにして追い抜かす。こういう出方はずるいと思っていたし、自分から何かを発信するほうが強者だと思っていた。けれど、必ずしもそうではないのかと気持が軽くなった。
少し発想を変えると、相手が強ければ強いほど自分も強くなれるということ。そのためにも、自分のものにする技術や努力(本書でいう「縮み」の技術)を普段から鍛えること。そういうやり方での自分のポジションの見つけ方もあるんだと知った。だからと言って、やっぱり広いところでの勝負は捨てたくないし、縮みだけではつまらない気がするけれど、日本人の志向として、「縮み」の血はどこかにあるもの、という考えを頭の引き出しに入れておこうと思った。
一つ一つの主張に、古典や俳句や民謡、日本語の言い回しからの論証がなされている。本当に幅広い知識を持った人でないと書けない文章だと思うと共に、文系で論理的に文章を書こうと思ったら、数字ではないこのようなデータ(資料)を集める必要があるのかと思った。たとえ同じだけの材料を渡されても、この本のように整理するのは難しいとも感じた。蘊蓄がたっぷりで読みごたえのある本だった。
日本の比較対象の相手は欧米ではなくて、中国や韓国とするべきだろう!という主張には、なるほどと思った。そこから入る出だしにすごく心をつかまれた。
2009年12月14日月曜日
【ホンヨミ!1211①】プロフェッショナル~仕事の流儀~宮本慎也【村山】
プロフェッショナル第二弾。今回は野球・東京ヤクルトスワローズのキャプテン宮本慎也選手の、チームを引っ張る極意について。
①二流の超一流になれ
②背中と口で引っ張る
③失敗から逃げない
①一番活躍する選手ではないが、脇役でもチームにとっては欠かせない戦力である。チームの中での自分が果たすべき役割を認識して、勝利のために自分がどのように貢献できるかを考える。そうすれば脇役が主役になることだってある。
素質が上の奴はいくらでもいるが、考える野球を極めれば脇役として超一流になれる。皆がみんな主役になれる訳ではない。だから、脇役としての自分に何が出来るかを「考える」ことが重要。一番大事なことは、自分の現状における能力を認識して、今の自分に何が出来るのかを答えが出るまでじっくり「考えること」だろう。そうすれば、目指すべき方向性を確立できる。
②自分の気持ちのこもったプレーを見せて、背中でチームを引っ張りつつも、時には励ましたり、時には厳しい言葉をぶつたりして相手を発奮させる。同じチームで戦う仲間だからこそ、言うべきことは言わなければならない。とても良く分かる。結果を残してきたからこそ出来ることだと思うが、誰しもが出来ることではないので、大事な役回りだと思う。
③自分のミスはミスとして認めないと誰もついてこない。言うことを聞いてくれない。言い訳をするのが一番良くない。失敗したら、自分がどんなに偉い地位にいてもその失敗を認めて謝る姿勢が大事。一番やってはいけないことは言い訳することである。言い訳をすると、相手からの信頼を一気に失ってしまうだろう。
自分がサッカーをやっている様に、同じスポーツ選手が言っていることなので、共感できる部分が非常に多かった。同時に、自分でもそうしただろうなと思えた局面が沢山あったので、何だかとても嬉しかった。
最後に、宮本選手にとってプロフェッショナルとは
努力するのはプロとして当たり前。それ以上するのが本当のプロである。みんなのやってないことをやるのが、努力するのがプロフェッショナルである。
2009年12月13日日曜日
【ホンヨミ!1218①】プレイフル・シンキング【栫井】
プレイフルというのは、好奇心に溢れてワクワクしている状態のこと。状況を目一杯楽しんで、活かしていく姿勢のことだ。
筆者がいうプレイフルな状態は、インタラクティブなコミュニケーションを心がけることで誰にでも生み出すことが出来る。インタラクションというのは、物事を前にして、一方的に主観だけを持って眺めるのではなくて、客観的な視点も入れて向き合うことだ。全体を俯瞰して多角的な視点を持つこと、つまりメタ認知を意識することと、積極的に物事に関わっていくことで、物事は一気に面白くなる。
本書には、様々な意味でのインタラクティブなコミュニケーションの実践方法が出てくるが、その中でいくつか印象に残ったものを挙げたいと思う。
やりたくない課題を課されたとき、なかなか素直に向き合えないことがある。こんなことしたくないのに、と思ってしまうこともある。しかし、少し視点を上にあげて見ると、その課題を達成することで自分が何を得られるのが見えてくる。つまらないと思っていた課題に、自分なりの意味や目的を付けることで、やってみようという気になれる。いやいやこなすときより、遥かに成長できるはずだ。このことは、ある時期から出来る限り実践するようにしていることで、あまり乗り気でなかったタスクも自分で意味を見出すことで思い切り頑張れることに気がついた。書評も確かに大変なタスクだが、本を読むという明らかなメリット、タイムマネジメント効果、それからタスクを達成したときの充足感を思ってやっている。
課題に煮詰まったときにも、メタ認知は役に立つ。目の前のことだけに集中するだけではなくて、少し離れた視点で、今何が必要で何につまずいているのか、プレイフルな状態なのか、問いかけてみる。おのずと何が問題で煮詰まっているのかが見えてくるのではないだろうか。このことは、論文会議のときにもよく感じていた視点で、煮詰まったときは、一つ上の抽象レベルから構造化することで、自分達が今何をしているのか、どこまで進んでどこで止まっているのかを明確化していた。
自分のことだけでなく、人との関わり方もインタラクションは大事な要素となる。難題を自分ひとりで抱え込まずに周囲を見回して、周りの人たちと恊働することを考えること。それも、その人の良い面を発見して、この人となら上手くやれる気がする!という自信につなげること。グループワークでは、各人の個性やバックグラウンドのコラボレーションが起こる。素敵なコラボレーションが出来ることを考えて、ワクワクするような課題解決の方法。論文班で特に感じることのあったことだ。そして、誰かと一緒に何かをやるということは、少なからず評価がくだる。そうした評価に振り回されるのはプレイフルではないが、その評価をバネにすることは、明日の姿勢を良くするために必要なことだ。たとえ厳しい評価をもらっても、そこで拗ねたりへこむだけではなくて、自分の現状を向上させるために活かすことだ。
自分自身と自分を取り巻く環境は、本質を探り当てて、それぞれの意味を自分なりに定義づけていくことによって、大きく色を変える。自分を変える可能性は無限大に広がる。
単純に明るいだけではない、真の意味でのポジティブシンキングは、プレイフルシンキングと密接に結びついているのだ。
2009年12月5日土曜日
【ホンヨミ!1204③】プロフェッショナル~仕事の流儀~・井上雄彦【村山】
②みな、生きている
大人気漫画「スラムダンク」の原作者である漫画作家・井上雄彦氏がNHKの番組「プロフェッショナル~仕事の流儀~」に出演した時の彼の発言である。
これらの言葉の真意を順に見ていくと、①は、自分が現状の力でコントロール出来ると分かることをやってもつまらない、ということである。つまり、容易に実現可能なことばかりに目を向けるのではなく、【常に挑戦し続けろ】ということであろう。
②は、自分が描くキャラクターが作品の中でそのキャラクターの言葉をしゃべっているかどうか、ということ。だから、そのキャラクターがしない様なことは絶対にしない。キャラクターは作品の中で生きてるから、そういうことをすると死んでしまう。そのキャラクターがどうしたいかを考えた上で、そのキャラが望まないことをさせると、もうそいつはそいつでなくなる。つまり、井上さんは「自分がそのキャラを、ストーリーをどうしたいか」ではなく、「そのキャラが何を望み、どのような感情を抱いて、どう行動したいのか」を想像(キャラに問いかけたり)して、キャラの気持ちを優先して漫画を描いているのである。自分目線ではなくて、作中のキャラクター目線で。この考え方は漫画だけでなく、色んなことに通用する思考だと思う。
また、彼の発言で印象的だったのは、「人は弱い」という言葉である。何かやろうとする時、自分の家や、自分のスペースでは甘えてしまう。だから、外に出て時間を決めてその中でやると決めてしまう。漫画を通して多くの日本人に影響を与えてきた様な人間が、このように簡単に自分の弱さを認められることには敬服した。『弱い人間は、自分を弱いとは言わない』という、信念が私の中にあるからである。
最後に、井上さんにとってのプロフェッショナルとは
【これがなくなったらプロをやめなきゃって思ってる。つまり日々成長し、向上し続ける人。】
彼になることは出来ないが、自分も彼のように、日々、向上し続けるという、その気持ちだけは維持していきたいと思う。
【ホンヨミ!1204②】誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方66のルール【村山】
【ホンヨミ!1204①】芸術(アート)のグランドデザイン【村山】
①やりたいことをすることが、人間が仕事をする中で、一番強い力になる。
②ライフスタイルの中にアートを標準化する。
③分かる人には分かる、分からない人には面白いものを作れ。
①について。確かにその通りだと思う。自分が興味のあることをやるのだから当然かもしれないが、人間は自分のやりたいことをやっている時が最も集中していると思う。一つの目的のために行動しているため、一つのことに力を注げるので、それだけアウトプットも大きくなるし、その質も高いもののなると思う。
②について。これは、日常生活の中にアートを取り入れるということである。とは言っても難しく考える必要はなく、まずは、直感的に自分の興味のあるもの、例えば小物などを自分の部屋に置いてみる、それだけでいい。必ずしも空間に置く物体だけでなく、洋服で考えてもいい。良いと思った服を着て、イメージと違ってもう少しかっこいい服が欲しいな、という程度で構わない。そうやって色々と試行錯誤しながら自分に合ったモノを取り入れていけば良いのである。ただ、注意しなければならないのは、自分の趣味を変える必要はないということである。周りが良いと言うからといって自分にとって合ってないと思えば、それを無理に取り入れる必要はない。大事なのは、自分の感性とそれを貫く信念である。
③について。これは黒澤明監督の言葉である。映画を含む商業作品や芸術作品には、共に分かる人にしか分からない深い洞察がある。そのため、分かる人には表現の背景にある文脈を理解できるが、そうでない人には面白い作品を提供すれば、たとえ表現の背景が理解できなくても作品自体を楽しんでもらうことが出来る。そういう意味で、「分かる人には分かるが、分からない人には面白いものを作る」ことの必要性が求められているのである。
20世紀が「科学の年」ならば、21世紀は「芸術の年」らしい。そのため、単に机に向かって勉強するだけでなく、アートを鑑賞して実物に触れる必要があるのだろう。最近あんまり美術館に行けてないので、ものすごく行きたい気分になった。
2009年11月20日金曜日
【書評】クラウド・コンピューティング:ウェブ2.0の先にくるもの【村山】
クラウドの本質は、「壁のない世界」を構築することである、この言葉にクラウド・コンピューティングという現象の説明が凝縮されていると感じた。個人的には、これまでクラウド・コンピューティングという言葉を聞くと、「データをネット上のサーバーに保存してるから、ネットワーク環境にいればそのデータをパソコンからだけでなく携帯電話からでも確認したり、引き出したりできるし、同様にインターネット経由で色んなウェブアプリケーション(ソフト)を自由に利用できる(SaaS)んだよな」とだけ考えていた。しかし、認識が甘かった。クラウドがもたらす「壁」の消滅はパソコンや携帯電話の間だけでなく、テレビやフォトフレーム、ビデオレコーダーなどの幅広い家電にまで広がっていくようである。例えば、テレビという家電の中で、自分の携帯電話にかかってきた電話を受けるといった様に。
クラウドは確かに便利で、コストを削減できるありがたい技術だが、一方で、クラウド・コンピューティングという技術への信頼と、クラウド・コンピューティングという技術を提供する企業を信頼していいのかという問題も残っている。つまり、セキュリティーとプライバシー(個人情報の流出)の問題である。これらの問題は、今後クラウドを利用していく上で切り離せない問題だと思う。
本書以外にもクラウド関連の本を読んでいこうと考えているが、今のところは獺の論文発表に非常に注目しています。毎回毎回、獺の発表を楽しみにしているので、クラウドに関する多角的な視点からの考えを聞かせて頂けたらなと思っています。今後とも、獺からは目が離せませんね。
【書評】クラウドソーシング【村山】
本書の中で、クラウドソーシングネットワークサービスの一つとして「インノセンティブ」というサイトが紹介されている。このサイトでは、例えばP&Gの様な世界的な大企業に所属する研究員が年月をかけて取り組んだ挙句、解決できなかった課題などが投稿され、それらの課題解決に世界中の人々(crowd=群集)が取り掛かる。その結果、実際に、社内だけで解決を図る従来の方法と比較して、30%以上多くの課題が解決された。つまり、何が言いたいかというと、多くの課題を解決するのは、一人の才能のある科学者ではなく、世界中の群集の叡智(集合知)だということである。クラウドソーシングは、ペインが唱えた「多様性は能力に勝る」ということの象徴だと思う。
また、本書を読んでいて、業務委託ではないが、多様性ある集団が課題解決に向けて取り組むという意味で、私たちが現在行っている論文制作もクラウドソーシングに当てはまるのかなと感じた。例えば、私たちの班であれば、「gov2.0による政府のオープンプラットフォーム化」という課題の解決・提言のために、全く違う考えや価値観を持った四人が共通の課題解決を目指して、各人の知恵を合わせていくというように。一人の才能ある人間が解決策を考えるよりも、多くの人間から多様な考えを募った方が、沢山のより先進的なアイデアが出てくるのではないか、そう感じた。
最後に、「自分のために群集に何が出来るかではなく、群集のために自分に何が出来るかを問う」という言葉がやけに心に残った。
【書評】ハーバードからの贈り物【村山】
どれも多くの示唆に富んだ素晴らしい話ばかりだったが、その中でも特に感銘を受けた二つの話について触れていきたいと思う。
まずは、「完璧を求めるな」について。文字通りの意味だが、完璧を求める必要はないというより、完璧を求めてはいけないと言った方が正しいかもしれない。一般的に、人間は不完全であることに居心地の悪さを感じて、完璧であることに至上の価値を置く傾向があると思う。しかし、大事なことは、自分という人間を客観的に評価・観察することではないだろうか。つまり、長所だけでなく、不完全さや弱さといった短所にも目を向けて、間違いを認め、自分自身を出来るだけ多くの角度から見ようとすることである。本文に、「価値のない人間がいないのと同様、欠点のない人間というのはありえない。」という一文がある。その通りだと思うし、このように考えられれば気持ちが非常に楽になる。社会的に成功したと言われる人間だって、失敗した部分にスポットライトが当てられないだけで、必ず失敗や挫折を経験しているはずである。では、彼らの様な成功したと言われる人間とそうでない人間の違いは何なのか。それは、自分の犯した間違いや欠点を認めて、自分自身を冷静に見つめ直してしることではないだろうか。自分の欠点を認めることは想像以上に難しい。誰でも自分の良い所に目がいってしまうと思う。だが、自分の欠点に正面から向き合い、完璧である必要の無さを理解した時こそ、有意義な人生を遅れるのではないだろうか。
次に、「サラの物語」について。この章はたったの7ページですぐに読み終わってしまうが、個人的には本書の中で最も印象的だった。理屈で云々というよりは生理的に感動した。サラは非常に有能で勉強も出来て、将来有望な女性だったが、親の仕事を手伝い、高校を卒業するとすぐに結婚してしまう。多くの子供にも恵まれたが、彼女が40歳の時に夫を亡くし、8人の子供を養わなければならなくなった。彼女の能力を持ってすれば、高給・厚遇の職に就くことも出来たであろうが、子供と過ごす時間を優先して、ギリギリ家族が生活できる位の給料しか貰えない清掃員の仕事を選択した。ハーバードの学生にサラの話をするのは彼女の息子の一人。当時、彼は、清掃員として働く母親を恥ずべき存在と思っていたが、本当に恥ずべきは自分の考えであり、自分の振る舞いであることに気づく。サラは、身を粉にして働き、彼女の能力を持ってすれば実現できたであろう多くの可能性や夢を全て犠牲にして子供(自分以外の人間)のために尽くしたのだから。サラほど自分以外の人間のために自分を犠牲に出来る人間がいるのだろうか。自分に能力があればなおさら難しいと思う。この章を読んで、自分の人生は、自分を支えてくれる色んな人の人生や幸せの犠牲の上に成り立っているのだということを、改めて認識した。自分に関係のある多くの人の力があって始めて、自分は成長し、幸せを手に入れることが出来るのである。一番認識していなければならないことを忘れてしまっていた気がする。同時に、自分もサラの様に、自己実現を犠牲にしてでも、誰かのために自分の時間を使える人間になりたい、そう思った。
【書評】人間関係に強くなる50のヒント【村山】
印象に残った章が多かったが、その中でも選りすぐりの三つについて考えたいと思う。
まず、「【勘違いした】とごまかす人は信じてもらえない。【間違えた】と素直に認める人が信じられる」について。確かに、人間は弱い生き物だから自分の失敗から目を逸らして、自分の失敗を認めようとせずに「勘違いでした」とごまかして責任逃れをしてしまう気がする。しかし、大事なことは失敗を認めることである。間違いや失敗は誰にでもある。別に悪いことじゃない。むしろ自分の成長のために失敗は必要だと思う。挑戦したからこその失敗だから。挑戦しなければ失敗すら出来ないから。いけないのは、失敗を認めようとしないこと。失敗から逃げることである。失敗から逃げていたら、責任から逃げていたら、いざという時に人に信用してもらえない。だから、自分は失敗をしたら、それを認めて、皆に謝り、責任を負える人間になりたい。
次に、「いい友達を探すより、いい友達になろう。助けてくれる人を探すより、助ける人になろう」について。いい友達って何だろう、漠然とそう思った。多分いい友達っていうのは、自分が苦しんでる時に、嫌な顔一つせず、自分(いい友達のこと)を犠牲にしてでも、自分のために時間を使ってくれる人のことだと思う。そういう人はほとんどいないと思う。だったら、そういう人を探すのではなく、自分がそうなればいい。誰かのために何かが出来る人に。ただ、このとき注意しなければならないことは、自分は「人のために何かをやりたい」のであって、「人に好かれるためにやるのではない」ということ。後者だとただの偽善であって、真の親切心ではない。
最後に、「疲れる原因は相手ではなく、自分にある。いいカッコをしようとしてないか」について。人間なんて皆何とかして自分を良く見せようとする生き物だと思います。それは悪いことではないと思うし、むしろ自然なことだと思う。ただ、自分を良く見せようとすることが、自分を疲れさせているのならば、それは違うと思う。無理する必要はないと思う。個人的には、本当にかっこいいのは常に自然体でいられる人だと思う。いつでも、どこでも、誰とでも、常に同じ振る舞いが出来る人。かっこいいというよりは、とても魅力的だし、素敵だと思う。そういう人を何人か知っている。会う度にすごいなと思う。同時に自分は何て薄っぺらいんだと反省させられる。自分はAかBかで迷ったら、もちろんカッコ悪い方を選ぶ。それが、自分の自然だから。
【書評】大学時代しなければならない50のこと【村山】
夢を実現する大学生と、
ただの大学生である。
夢を実現した人のほとんどは、大学時代にチャンスをつかんでいる。そのチャンスとは「出会い」である。本書は、これを前提とし、大学時代にしなければならい50の事柄を紹介している。
その中の一つに、とても共感できた内容があった。「コイツは凄いと思える人に出会う」ということである。このような人間に出会うことが出来れば、同時に必ず「このままではヤバイぞ」と、感じるはずだからである。大事なことは、「ヤバイ」と感じられるかどうかだと思う。一般的に、日本の大学は入学するのが大変で、アメリカの大学は卒業するのが難しいと言われている。例えば、アメリカの学生は宿題の量がものすごいらしい。分厚いテキストを渡されて、来週までに読んでレーポートを提出ということが日常茶飯事らしい。そのため毎日がテストの様なもので、及第点に満たなければ、どんどん落第らしい。一方で、日本の学生は自主的に勉強しなくても、授業に出席してテストさえ受ければ卒業できてしまう。つまり、自分の意思で勉強しなければならないのである。そのような意味で、勉強する学生と、勉強しない学生の差は激しいと言えるだろう。実際に、アメリカから慶應大学に留学に来た私の友人に、「周りの日本人は何で、こんなに勉強しないのか」と聞かれたことがある。私は理由を答えられなかった。それと同時に、もっと勉強(大事なこと。もちろん勉強だけではないが)をしなくてはと痛感させられた。「大事なこと」をしなかった人は、する努力を怠ったのではなく、「大事なこと」が何であるか知らないだけなのだと思う。「今」の自分にとって大事なことは何なのかを気づかせてくれたのは、もちろん留学生の友人だけではない。大学生活を通して関わった(主にゼミ)多くの人のお陰である。そんな出会いに感謝して、一日を一時間を、少しも無駄にすることなく歩んでいきたい。
余談ですが、出会いに関してこんなことが書いてありました。カッコいいと思ったので紹介させて頂きます。
「出会いとは、あらゆる偶然が重なり合って起こる奇跡であり、その時にしかその出会いは起こりえない」。
今、自分が関わっている全ての人との出会いは奇跡なのかもしれないですね。
【書評】学校で教えてくれない50のこと【村山】
印象に残った内容が三つある。まずは、「人への接し方」について。人間は役職に就いている偉い人に対して、ぺこぺこ頭を下げる傾向にある。相手が横暴な態度をとっていて、それを内心嫌だと感じていても。だが、自分の地位が上がると、自分も部下に対してかつて嫌だと感じた上司と同じ態度で接してしまう。偉い人に対しては、人間は謙虚に腰を低く振舞える。しかし、大事なことは、たとえ地位が上がっても、今までと同様に全ての人に謙虚に対応できることだと思う。このことを自覚しなければ、自分にどんなに能力があっても、誰も自分を慕って付いてきてくれる人はいないと思う。
次に、「とりあえず、『出来る』と言えること」について。個人的には、自分の人生の中で、自分が求めているのと同じチャンスは何度も巡ってこないと思っている。だからこそ、数少ないチャンスを確実にモノにする必要がある。その時に、重要なことは、「出来るか出来ないか」ではなく、「やるかやらないか」である。たとえ出来ないことでも、とりあえず出来るといって、後のことはその場面に直面した時に考えればいい。きっと、大抵のことは何とかなる。自分は後のリスクを考えてから行動する傾向があった。最近は、少しずつ改善されつつあるが、やはり、まずは「行動」。このことを意識して、色んな所へ顔を出し、今まで知らなかった多くのことを吸収していきたい。
最後に、「誰も見ていないような時でも、一生懸命やること」について。人が見ている時しか体よく行動できない人間は弱い人間だ。ビクビクしながら周りからの評価を意識しているからなのか。そんな人間はいつかボロがでる。皆の前にいる自分は「本当の自分」ではなく「演じている自分」だからだ。そんな人生は疲れるし、きっとつまらない。ゼミブログにも書いたことだが、「見てくれている人は、ちゃんと見てくれている」。別にその人ために何かをやる訳ではないが、自分の頑張りを評価してくれる人がいるのは確かだ。だったら、二人の自分を演じ分けず、いつでも本当の自分でいられる様に、自分のスタイルを変えず、自分が思う道を突き進めばいい。少なくとも、自分はそうありたい。
【書評】独立するためにしなければならない50のこと【村山】
独立のために必要なものとして、「発想の転換」が挙げられていると思う。例えば、一千万円を集めなければならない時、一万円を千人から集めれば素早く目標金額を回収できるだろう。しかし、一万円を貸すのは、金額的に大変という考えの人が多いのではないかと思う。この時に、発想を転換して、百円を十万人から集める、と考えたらどうだろうか。重要なことは(十万人に出会えるかどうかという、現実的な問題ではなく)、どのようにしたら自分の目標を達成できるのかということに対する発想の転換である。実際に、百円なら精神的にも、心理的にも貸すことに苦痛を感じないのではないか。つまり、独立に必要な要素は、この発想の転換と、自分がやると決めたことを最後までやり切る覚悟であると思う。その覚悟の例として、映画監督のスピルバーグが役員の振りをして、役員室に潜り込む話が紹介されている。彼は、映画の撮影所に入りたかったのだが、撮影所の入り口にはガードマンがいて、IDカードを見せなければならない。だが、スーツを着た映画会社の幹部は手を上げるだけで中に入れるということを見抜き、自身もスーツを着て幹部の振りをして3ヶ月間も過ごしたのである。彼が、潜り込もうと思ったきっかけは、自分も映画を作りたいと思い、何とかしてその制作過程を見たいという覚悟であった。独立するには、自分が決めた進むべき道を途中で変えることのない覚悟も必要になってくるのであろう。
【書評】デジタルサイネージ革命【村山】
デジタルサイネージのメリットは四つある。①従来の写真や文字を中心としたポスターなどの広告と異なり、動画や音楽を利用できるので、提供できる情報量が圧倒的に増える。②時間と場所を特定できるので、ターゲットを絞った特定の層にピンポイントかつリアルタイムで情報を提供できる。③ネットワーク管理によって、ディスプレイ端末ごとに供給するコンテンツを制御できる。④紙のポスターや看板を張り替える必要がないので、長期的に見て広告コストを削減できる。例えば、駅ナカに飲料メーカーがデジタルサイネージを使った広告を流す時、朝は通勤者向けに缶コーヒー、午後は主婦向けに健康飲料、晩は帰宅者にビールの広告を流すというように。従来のポスターなどの紙媒体では時間によって提供するコンテンツを差し替えることは不可能であったが、デジタルサイネージはネットワークで提供するコンテンツの管理が行われているので、時間と場所を考慮して、その場所を利用する人々に向けた情報をリアルタイムで提供できるのである(行動ターゲティング広告)。ただ、デジタルサイネージは広告としてだけではなく、その他の使い方も出来る。例えば、学校の休校情報を知らせるために学校に設置したり、病院の休診日を事前に知らせるために病院に設置したり、というように。そのような意味で、デジタルサイネージは単なる広告ではなく、広告以外の用途にも使用できる様々な可能性を持ったメディアと認識する必要があるのではないかと感じた。また、デジタルサイネージには、映像と連動して「香り」を発生させて嗅覚に訴える「香りサイネージ」の様に、人間の五感に訴えるサイネージもある。さらには、プロジェクターで床に投影された映像を足で踏むと、コンテンツが変わるという様な、自分の動きによって、映像が様々に変化するインタラクティブ(双方向的)なシステムも導入されてきている。
このように、一言にデジタルサイネージといっても非常に多様性に富んだ形式のサイネージが増えてきているが、技術の開発から実用まで、産業形成に時間がかかるのは良くあることである。大事なのは、産業化されてから後、その技術が普及していくかということであり、その普及を支えるのは配信されるコンテンツである。どんなに面白い技術でも、提供するコンテンツがつまらなければ誰も興味を持たないだろう。ハードだけでなく、ソフトも、同様に、ソフトだけでなく、ハードも、両方の発展なくしてデジタルサイネージの普及はないだろう。とは言うものの、今まさしく進化をし続けている新しい技術・デジタルサイネージの今後の進展が非常に楽しみである。