「やさしさの精神病理」大平健著
著者は現代人の「やさしさ」とはいわば人付き合いの技能であり、具体的で実践可能なことだと述べている。本書は「やさしさ」という言葉の使われ方の変化を通して、「出来るだけ他人の心に立ち入らず滑らかな人間関係を築こうとする」現代人の葛藤への脆弱性を指摘している。今回はtwitterなどのWEB上のコミュニケーションツールを本書の観点を利用して考えてみたい。
この本は10年以上前に出版された本であるが、その指摘は未だ新しく身近に感じられる。この本のなかで著者はポケベルについて触れ、「電話したい気持ち」のみを送るこの機械を「電話に伴う、相手の都合を考える葛藤を軽減する受身になるための道具」と指摘した。やがてポケベルは携帯メールの発展によって廃れた。メールは電話よりも時間性に束縛されない通信手段である。あくまで通話の補助的存在だったポケベルは、さらに通信の葛藤を解消してくれるメールにとって変わられたと考察できる。
人間誰しも自己表現をしたいもので、それと相反するように「相手にとって興味がなかったら、めんどくさいと思われたら嫌だ」という葛藤も生じる。人は相手によって話題を使い分ける。インターネットというライブ感が薄く、ストックがきき、不特定多数に公開できるツールは、ブログなど一部この葛藤を解消することが可能になる。ただ「mixi疲れ」という言葉が象徴するように、その人間関係が現実世界と同化するとまた再び葛藤に引き戻されるようだ。
そこで登場したのがtwitterではないのか。「つぶやき」とは上手い表現である。twitter上には、「つぶやき」だからどんなにささいな自己表現も許されるという雰囲気が形成されている。TL上に現れては消えていく大量のつぶやきは興味のある誰かが反応するかもしれないし、しないかもしれない。しかし「つぶやき」だから何の問題もないわけである。twitterは情報通信ツールとして非常に素晴らしいであり、同時に本書が指摘する自己表現がしたいけど苦手な「やさしい」現代人にやさしいSNSでもあると思う。
日本ではこのtwitterは情報収集の側面とSNSの側面どちらでより広まるのであろうか。現在twitterは「珍しいもの好き」「時流に敏感な人々」は知っているが、大衆には浸透しきっていない感覚がある。携帯からのアクセスをより便利に身近にし、現在mixiを利用している若者を取り込めばもっと浸透すると私は思う。しかし知ってる友だちがいないSNSは利用されない。どうにかして最初の若者を取り込むことができれば、twitterを彼らのハブ化させることができる。わたしたちはゼミの活動の一環としてみんなでtwitterを始めたが、それはかなりの例外である。ならどうするか?芸能プロダクションと提携し、嵐など学生に人気な芸能人がもっとtwitterからつぶやきを発すれば結構ウケるのではないか?
2010年1月5日火曜日
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