愛するということ/エーリッヒ・フロム
もちろん恋愛云々のハウツー本ではない。人間の「愛する」という行為の核心を説き明かす、「愛する」行為について真剣に考えるための本だ。夏休みに参加した読書朝食会で社会人の方に紹介していただいたこともあり、手にとってみた。前半は「愛の理論」が主な内容であり、割と人間の存在論のようなことが書かれていた。去年の般教で「神を哲学する」という講義を受けたが、この本の前半もそのような神や存在についての他の哲学者の主張などを含めた、「論」が展開されていた。去年から考えていたことだが、私はあまり人間の存在自体についての哲学という学問にあまり興味をそそられない。確かに自分も人間である以上、そのような視点を知っておくことは大切だと思うが、人間はそれでも結局自分が今生きている「私」のこの現状を、「現実」という環境に適合させながら自分で切り開いていかなければならないわけで、そういったときに普遍的な「人間」について思考を巡らせるよりも、私的体験(世界、日本、現代社会、大学、家族、友達・・・)を通して何をどのように学び、そこからどのような思考を持つことができるか、という哲学の方が魅力的だ。なので、本書の内容をすべて読み砕くのではなく、それこそ学びとるべき部分をエゴイスティックに拾った。一番の収獲を挙げたい。
・愛することは能動的であり、技術だ
愛するべき対象が目の前に現れた時、自分は全力で愛を注げる自身がある。愛したい対象がないから愛すことができない。自分も含め、そう考えている人が多いのだと思う。愛する対象がないから今は愛することをしていないのではなく、それは愛する能力が未発達なだけだ、という筆者の言葉に感銘を受けた。愛することも、叱ることと同様(いくら叱る対象がいてもそれだけで上手く叱ることはできない)、愛する能力を身につけるための努力と訓練が必要なのだ。そのためには能動的行動が必要だ。筆者いわく、「必要だから、愛するべきだから愛する」のではなく、「自分が愛するから愛する」。例えば、私はその能動的行動をこのように考えた。愛する対象の良さを引き出していく働きかけをすること。愛する対象が自分にとって必要な行動をするから、自分にとって魅力的であるから愛する、という対象依存型の「愛する」ではなく、愛するために自分から働きかける。それは無理やり愛そうともがくというのとは違うのだと思う。どこがどうちがうのか、自分の中でまだよく消化しきれていないので、これから自分で行動しつつ考えていきたい。また、「愛する」という行為の能動性ということが「興味・関心」にも当てはまると思った。今自分は4月からの方向性について考えているため、自分の興味関心について思い悩む。しかし、言えることは一つ、興味関心が持てる対象が現れないから、興味関心を持てないのではない。興味関心は自分の能動的な働きかけを通して獲得するものだ。
2010年1月3日日曜日
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