グアテマラの弟/片桐はいり
俳優の片桐はいりさんが、中南米グアテマラのアンティグアに移住し「グアテマラの人」となった弟を訪問したときのグアテマラ生活・人間の観察を綴ったものである。しっかりとした論になっているわけではなく、徒然なるままに・・・というような旅行記ではあるが、普段考えもしなかった視点を知ることができたので、それについて書きたい。
「分別したら、この人たちの仕事がなくなっちゃうっていう考え方もありますよ」
アンティグアは景観保護地区になっているせいもあり、町並みはパステルカラーの家々に彩られてとても美しい。しかし、地面に目を落とすとそこはゴミだらけ。バスの窓から平気でゴミを投げ捨てる。街のゴミ捨て場は分別されることなしに各家庭からのゴミが散乱している。ポイ捨て禁止、ゴミの分別は家庭で・・・を徹底している日本人からすると、発狂してしまいそうなことである。しかし、アンティグアではそれがそこでクラス人々の生活サイクルを維持するためのものであるのだ。ゴミ収集所でゴミを分別するという職業がある。ゴミを楽に捨てたい・ゴミを分別することで生計を立てる。需要と供給が一致することで、職業になっているという点ではグアテマラも日本も変わらないのではないか。ただ、社会の発達度による、「仕事のとらえ方」の違いがあるだけだ。また、グアテマラではそう裕福でない家も、いわゆるお手伝いさんを雇う。家庭の仕事は人に任せられるものは進んでお金を払って任せてしまう。そうすることで社会全体で仕事を回しているのだ。グアテマラの人がこれらを意識的にやっているかはわからない。しかし国には国、地域には地域、民族には民族の、それぞれ社会が成り立つためのサイクルが存在する。先進国・途上国ではそのサイクルがどの次元に存在するか、で決まってくる。このサイクルは世界という文脈で考えれば確かに優劣は見えてくるだろう。個々の国地域で成り立っているサイクルがそれ自体いいか悪いかは決められないということはもちろん思うが、その国地域が(特に途上国の場合)世界という文脈から切り離されて、自己完結しているだけでよいのだろうかと考えた。発展するということは、前述したサイクルが一段上に上がることであるのだから。
2010年1月3日日曜日
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