2009年10月27日火曜日

書評 審判 フランツ・カフカ著

かねてから読みたいと思っていた小説のひとつだったが、文面が退屈すぎて途中をスキップしてしまった。退屈なのもそのはず、なぜならこれはただの小説ではなく警告書だ。

ある朝、K(恐らくカフカがモデル)は、突然逮捕される。理由は最後までわからない。しかし、日々の暮らしは意外なことに普通に進んでいく。逮捕の執行人も監督人も登場するが、制服でなく普通の服をきており、どうも「それらしく」ない。審判が行われる場所も、隣人の部屋だったり、ボロアパートの一室であったり屋根裏部屋であったりと明らかにおかしい。

彼を物理的に拘束したのは最後の最後の処刑用の道具だけであって、それ以外はわけのわからない「罪」のみが彼を拘束する。Kは30歳で銀行の幹部を務める。何か悪いことをした覚えは一切ない。しかし罪はどうやらあるらしい。ネタをばらして申し訳ないが、最終的にKは処刑される。その罪もわからないまま。確かなのは目の前にある現象だけで、とらえどころの無い巨大な執行機関の実態に触れることは不可能なのだ。

二つ恐ろしいことがある。それは「情報」と「人の心」だ。逮捕以前は何気なく接していた隣人が、「徐々に」変わっていく、しかも見えないところで。誰に言ったわけでもないのにみんなKの逮捕を知っている。この二つをコントロールすることが出来れば、大人ひとりを死に追いやることなど容易いことなのだ。そういう社会を僕たちは生きている。

こうした「社会の罠」という視点以外に、もう一つの見方がある。それは、Kは裁かれる人全てであるという視点だ。刑務所に収容される人の大半は、自分の罪の「正当性」を認めないらしい。社会のせいにしたり、家族のせいにしたりする。アル・カポネにして「俺は社会のために奉仕した。その仕打ちがこれか」と刑務所で嘆いたそうだ。国民の大ブーイングによって辞任したニクソン大統領も、政権を陥落させた麻生首相も自分が悪いとはつゆ思ってないだろう。つまり、裁きとは本質的に不条理であって、それ以上のものではない、という見方だ。

金ゼミでは最先端のビジネスを扱う。クラウド、ライフログ、グーグル、SNS、サイバーポリティクス。これらを扱うとき、そこに道徳の問題を入れることはナンセンスだとまでは言わないが、少なくとも建設的ではない。ただし、それを突き詰めた先に管理社会がありえることを、心で忘れてはならないと思う。

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