2009年10月14日水曜日

【ホンヨミ!】意識とはなにか【金光】

意識とはなにか 私を生成する脳  
茂木健一郎

今週はなぜか茂木さんの本を2冊読んだ。
前も思ったけれど、茂木さんの本には「クオリア」という彼が表現する独自の観点が貫かれていて、でも取り上げている内容は脳科学と聞いて思い浮かべるような堅苦しい専門用語のオンパレードとは全く違うので、とてもとっつきやすい。いつも納得して、そしてこの感覚を言葉にできる茂木さんをすごいなぁと思ってしまってなかなか内容を分析、解釈というところまでたどり着かない。これでいいのだろうか…

簡単なこと、日常生活ではやさしくとらえて使い流してしまうことをとても詳しく難しく考えてしまうことがよくある。でもそれを考えているのも、自分。<私>、さらに言うなら私の脳であること。自分自身の脳の中で生み出される「クオリア」は自分のこれまでのいろんな主観的な体験や過去のクオリアが堆積して生まれるものだから、たとえその時に活発に反応する脳の信号を全部読みとれたとしても、その人と同じクオリアは共有できない。だから、いくら一般的な表現でも、言葉を尽くしても、同じクオリアはその人にしか味わえないもの、ということ。これは前の書評で、「足がシビレル」意味がわからないという例と同じだと思う。

もう一つ、これを読んでいて思い出したエピソードがあった。妹が生まれたとき、5歳だった私は嬉しくて、これから妹も自分も大きくなった時のことをぼんやり妄想をふくらませていた。その時、ふと大きな疑問と不安が頭に浮かんだ。今はこんなに可愛い赤ちゃんだけど、大きくなったら私のこと忘れちゃうんじゃないか?!?と。当時イメージしていた’大きくなったら’というのは、おばあちゃんになるとかではなくて小学生、中学生くらいの年のこと。でも、こんな小さな何もしゃべれないような赤ちゃんが、はきはきと言葉を話す一人前の女の子になることが信じられなかった。急に成長して、その過程で今までの記憶なんてふっとんでしまうんじゃないか、と思っていた。ある日起きたら妹がいつの間にかぐんと成長していて「おはよう、ところであなたは誰?」とでも言われるような気がしていた。忘れられちゃったらどうしよう…と悩んだ。自分のことを考えたらわかりそうなのに、そんなことは頭が回らない。何回考えてもこの謎が解けないので、おそるおそる母に打ち明けてみたが、この質問の意味がわかってもらえるはずはなかった。いつの間にかこの呪縛もについて考えることを忘れ、そして次第に二人とも成長し、「人はだんだん大きくなって、その過程でいろんなことを習得するんだ」ということを知った。
この本にはほとんど別人になるほどのダイナミックな変化が起こっても、<私>が<私>でいるのは、いろんなものを見て感じる内容は成長に伴い変化するけど、見ているもの「対象」自体は変わらないクオリアとして認識しているから、らしい。
また、自分のエピソードで長くなってしまいました。

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