2009年9月25日金曜日

言葉

 
 夏休みの宿題はいつも新学期が始まってからとりかかります山本です。遅くなってごめんなさい。最後の夏休みブログアップします。

 
 夏休みのある日、思い立って携帯の電源を切り、パソコンを自分の部屋から放り出してみた。メールも電話もmixiもtwitterもない生活を2日間送ってみた。ちなみに、こういう行動をとってみたことに特に意味はない。“携帯電話の必要性について考えてみた”とか、そういう訳でもない。
 しかし結果的にこの2日間、私は随分快適な生活を送ることができた。携帯電話がない日々って素晴らしい。メールがない生活ってすごくストレスフリーだ。(心の奥底では気にかかっていたりはするのだが)
 私のまわりにはメール嫌いな人が沢山いる。私も例にもれずその一人なのだが、その理由は“言葉の難しさ”にあるのではないかと思う。
 私たちは頭に浮かんでいるもやもやと漠然としたものを、そのもやもやに一番近い言葉に置き換えていく。ひとつずつ、あれでもないこれでもないと吟味しながら。しかし、私のようにボキャブラリーの少ない人間は、言葉の選択肢が少ないため、頭に浮かぶもやもやに一番近い言葉を使って表現しても、それは私が現に思っていること(=もやもや)に随分かけ離れたものになってしまう。しかし、もやもやと私が厳選した言葉とのささやかな乖離が、友人との大きな軋轢を呼ぶことは、きっと稀なことではない。言葉って本当に厄介だとよく思う。
 よって、この頭に浮かぶ気持ちを人に伝えたくても、それがそのまま伝わることは100%不可能だ。語彙の豊かな人ならば、巧みな言葉を使って極限値にもっていくことはできるかもしれないけど。きっと古代に歌や踊りが生まれたのは、言葉の無力さを知っていたからだろう。
 話がややずれたが、そんなわけで、会話のなかで私たちはその瞬間瞬間に自分の考えを言葉に置き換える作業をこなしているが、メールは会話と違ってその作業にある程度時間をかけることができる上、ノン・バーバルコミュニケーションが出来ないので(唯一手段があるとすれば絵文字くらい)より精密な言葉の選択が必要になってくる。
 そういう理由から、人々はメールを嫌うのではないか。少なくとも私はきっとそうだ、と思ったけど、もしそうだとしたらきっとこの文章も自分の頭にあることのほんのちょっとしか伝えられてないのかな。

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