2009年9月10日木曜日

宗教とは。

アップが遅れてしまい、本当に本当に申し訳ありません。


---------------------
「宗教とはなんだろうか。」と、最近よく思う。信仰は私たちに何をもたらすのだろうか。
イタリアのサンピエトロ大聖堂で見た、石膏に模られた神々しいキリストや、イスタンブルの街角のモスクで見た、唯一神アッラーに平伏すムスリムたち。私が今夏ヨーロッパで見た宗教は、日本人である自分にとって何か遠い存在であるように思えた。しかしその一方で、8月30日に行われた今回の総選挙では、歴史的な政権交代の背景に宗教法人の姿が鮮明に見て取れた。今週発売の『週刊ダイヤモンド』にもあるように、有力候補者の裏には、政治支援を行う新興宗教の後押しが依然として強く存在している。また、このような政治活動は、圧倒的な信者数があるからこそ成り立つものだ。では何故これほどまでに人々は信仰を持とうとするのだろうか。
私は、それは人々が自分の存在を証明するためだと思う。
わたし達は皆長い人生の中で、楽しいことがあったり喜んだりする一方で、もちろん苦しんだり怒ったり、ときに人生に絶望したりする。それらの負の経験を、「自分の人生に、神によって課された宿命だ」と考えることによって正当化できるのではないだろうか。そして、宇宙のなかで塵の存在に等しい自分という存在や、その人生を宗教は「信仰によって救われる」といって肯定してくれるのではないか。この世界に自分が存在する意義というのは、悲しいことだが古く古代ローマの時代から人々の悩める源であったと思う。
しかしここでひとつ問題が生じる。それは、自分が“存在する”ことを証明してくれる神が“存在する”ことを信じているのもまた自分であるという矛盾だ。有形無形に関わらず言葉という便利な道具を使って様々な物事が“存在する”ことを認めてきた私たち人間が“存在する”としている神という存在は、もしかしたら、神を“信じる”のではなく“認める”ことから生まれるのではないだろうか。だとすると、神もまた私たち人間によって存在が証明されている、相互依存の関係であり、私たちが考えるよりもっと脆いものなのかもしれない。
日本人は時に、「宗教をもたない稀な民族である」だとか、「宗教を持たない民族だからこそ、道徳心が欠如している」と批判される。
しかし私たち日本人も、窮地に立たされた時にはひそかにこう叫んでいるときもあるのだ。
「神様助けて」と。

0 件のコメント:

コメントを投稿