2009年8月1日土曜日

【ホンヨミ!】安心社会から信頼社会へ【斉藤】

安心社会から信頼社会へ~日本型システムの行方~ 山岸俊男

 グローバリゼーションの波が日本にも押し寄せ、人と人、組織と組織の関係は流動的になった。そのような社会で、かつてのようにお互いが、「相手は必ずコミットしてくれるだろう」という暗黙の了解を抱くことができる安心が存在する関係が少なくなりつつある。というのも、さまざまな人や組織と自由に関係を構築できるような社会になったため、特定の相手と上記のような関係でいるがためによりよい相手と出会う機会を失うことのリスクが高くなったからである。本書ではこれを「機会費用の増大」としている。より良い機会を求めて、人々は安心の関係から外に出る。しかし、今度は相手が自分にコミットしてくれる、というあらかじめ存在する安心はない。ゼロベースで関係を構築していかなければならない。だからこれからは他人(自分の属する集団以外の)を「信頼」していくことが必要になってくるというのが筆者の見解だ。
転職や派遣労働者が増えたことは、雇用関係という観点からはこのような社会の変遷がよく見える。しかしだからと言って信頼関係が生まれたか、といえばそうではない。むしろ最近の派遣労働者などの雇用問題を見れば、信頼関係を構築することに失敗しているように思う。社会はこのような問題を経て、これからどのように構造変化していくのだろうか。

本書は比較的大きな視点で社会構造を見ているが、私は時代とは関係なくもう少しミクロな視点でこの信頼社会と安心社会について考えた。
高校までが安心社会だとしたら、大学は信頼(を必要とする)社会ではないだろうか。高校までは毎日顔を合わせるクラスメイトがいて、皆同じように勉強し、行事もみんなで協力して行う。また、部活などでもみんなで同じ目標を共有し努力する。これらは自発的な行動というよりは、その集団に属しているからそのようにやる、という要素が強いものだ。この集団の中では、もちろん自分もコミットするし、また相手(みんな)もコミットするだろう、という安心が成り立っている。しかし大学ではほぼ自分の活動は授業、サークルから課外活動まですべてを自分でどこにコミットしていくか、ということを決めていかなければならない。しかも、コミットしようと決めた相手や集団が自分と同じようにコミットするという安心はないし、自分が必ずしもコミットしていける保障もない。しかし、高校までよりも圧倒的多くの選択肢や集団があるため、高校までのようなある一つの集団に全力を注ぐと、それ以外のところでもっと自分にとってよい関係を構築していく機会を失っているような気分になる。無意識のうちに機会費用のことを考えるようになる。実際に自分は高校時代陸上部の活動に全精力を尽くしていて、それはとても充実していたため、大学に入って体育会競走部に入る道も考えていた。それはそれで充実していたかもしれないが、大学に入ったからにはもっと視野を広げた活動がしたいと思いその道は選ばなかった。確かに、安心関係から外に出たことによって不安は増大し、今だにそこから出ることでよりよい関係が構築することができたかどうかはわからない。しかし、出ることをしなかったら自分は大学に入ってから短期留学や、メディアコムのことすら考えなかっただろうと思う。本書に、今までの日本社会は安心関係が存在することにより、外部の他者を信頼することを拒んできたとあった。自分も日本社会も、信頼関係の構築に成功したか否かは別として、他者を拒まない、という「ゼロ」地点に立てたことが、少しでも進歩した証拠なのではないかと思う。「ゼロ」からどのようにプラスにしていくか、がこれからの課題である。

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