2009年8月24日月曜日

さいきん考えたこと

内山です。昨日体調を崩していて、そのときベッドの上で空を見上げて考えていたことを書きたいと思います。

悟りとは何か。死を恐れないこと?けれども死というのは、いざ迎えるとなるとたぶん簡単だと思うのです。わたしは死んだことがないから分からないけれど、案外簡単に迎えられると思います。現に、わたしの両親は、死自体を怖いと思わないらしいです。けれどもそうするとわたしの両親はすでに悟りを開いていることになります。たぶん、わたしの両親と同年代の方には、わりとそういう人もいるかも知れません。悟りとは、そんなに簡単なことなのか?

わたしは悟りは死を恐れないこととは別な気がします。正岡子規の言葉を借りるなら、悟りを開くということは、何があっても平然と生きていけるということ。何があっても同時なければ、それは悟り。そこには死も含まれます。けれどその、なんと難しいことか。愛する者の死も、平然としれいなければならないのです。自分の死を恐れないというわたしの両親が、家族の死を恐れないとは思えない。愛すべき人がいれば、それを失くしたら悲しむのか自然でしょう。そこで無感でいられたら、どんなに楽か。

たぶん非情に思えても、それとは別のところにあるのでしょう。わたしにはまだ、非情との差がちゃんと分らないけれど。楽と幸福は違う。非情ではない悟りをもし開けたら、それは幸福なのかもしれません。けれども出家して家族との繋がりを断つように、愛する者のそばではなかなか悟りは開けないのではないかとも思いました。感情移入するなという方が難しい。だから悟りを開くのは大変なのです。

何があっても平然と生きていける強さ。それが非情とは違うものなのだとしたら、手に入ったら人生を優雅に渡れるでしょう。皮肉ではなく。けれどもほとんどの人には大切なものがあって、だからこそより充実した人生を歩けるわけで、ならば無理して悟りなんてもの、開く必要はない気がします。大切なものを割りきれないのは悪いことではないです。後ろ髪引かれすぎるのは、もちろんよくないことですが。だからほとんどの人が、悟りなんて開けずに、心のまま、生きていくしかないわけです。たぶんそっちの方が人間らしい。その分大変だろうけど。

俗世で生きる人間にとって、悟りとは死を恐れないことだけで十分なのかもしれません。わたしは自分が死んだら親が悲しむし、まだ死にたくありません。自分の死を恐れない程度には、しっかり生きていきたいです。何があっても動じないようにするには、わたしは感情的過ぎるので、もう少しセーブすることを覚えつつ、揺さぶられながら、それをプラスにしていけたら、十分なのではないでしょうか。

あんまりまとまってなくてすいません!もしかしたら編集加えるかもしれないです。

ひとまずおしまい。

1 件のコメント:

  1. とても興味深く読みました。金
    PS:編集要らないんじゃないのか。

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