2009年7月16日木曜日

【書評】イエスはなぜわがままなのか【勝部】

この本のタイトルを見たとき、我が目を疑った。

「イエス」ってあのイエス・キリスト?まさか、20億のもcivilに絶対的な神として崇められるイエス・キリストが「わがまま」であるはずが無い。私は典型的な日本人と同じく、正月には初詣に行き、葬式にはお坊さんが来るのを当たり前と思い、クリスマスになると何かしらの特別な意味を思い浮かべる、それでいてほとんど無神論者、無宗教に近い。しかし、研究対象としての宗教には関心があり、それは社会学・政治学的な領域での宗教だ。この本は、そんな私にぴったりな本だった。

新約聖書のエピソードは無数にあるが、代表的なものを除いて、我々はその大半を知らない。断っておくが、この本は敬虔なクリスチャンによって書かれた本であり、キリスト教を否定するためのものではない。そこで、例えば、少しデフォルメするが、イエスが「俺は腹が減った。でもこのイチジクの木には実がない。ならば枯れてしまえ!」といって本当にイチジクの木を呪い枯らしたという話をあなたは信じることが出来るだろうか。何のためらいも無く罪も無い豚を集団自殺に追いやって、住民から『頼むから出て行ってくれ』と懇願されたり、私は平和なんてもたらさない、争いをもたらすためにいる、と平然に言うイエスの姿を想像できるだろうか。また、「家族と敵対せよ」という教えを何の疑問も無く受け入れられるだろうか。神殿を市場として使っていたことに腹を立て、鞭で動物を扇動し、めちゃくちゃにした破壊者としてのイエスをどうとらえるべきだろうか。

聖書は教科書ではない。無味乾燥に連ねられた事実を覚え、規範とするのではなく、その奥に潜む真実を読み解かせるものなのだ。これらのエピソードには意味がある。筆者なりの解釈はここではあえて紹介しない。なぜなら、インターネットで調べてみたところ、これらの解釈は実に多様だったからだ。つまり、答えは人によって違い、正解などないのだろう。

私はこういったエピソードは逆にキリスト教がここまで広く受け入れられた秘密でもあると思う。合理的で、首尾一貫しているものより、不完全で人間らしい人の方が不思議と魅力的なものだ。もしイエスが矛盾なく、完璧主義者だったら現在までこのキリスト教が存在していなかっただろう。なぜだかそういう気がする、合理的でないものは合理的には説明できないが。

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