法律家によるごく常識的な著作権入門書。
著作権に関しては金ゼミで一通りやってきたので、本書から新しく学ぶ部分は割かし少なかった。それ以上に自分の中で確信的になったのは、この手の議論の答えは人の拠ってたつ立場やこれまでの人生における経験によって変わってくるだろうということだ。もちろん、弁護士の腕によっても。つまりは「コップ半分のお水」理論だ。半分しかないか、半分もあるか、それは神すら一律に決めることが出来ない問題だ。詭弁と言われればそれまでだが。
ならば、著作権を使って上手くやり過ごすには、公以外の場での調整と「疾しさ」や「負い目」を背負った表現をしないことではないかと自分なりに思った。前者に関してだが、「権利」というものは「自由」をrealizeするための説明書のようなものだと私は思っている。権利なら、法律を通さなくても当事者間の事前の交渉や話し合いで決着がつく。煩雑さによるコストを考慮に入れてないが、そういった意味で、調整力が物を言う時代になるのではないか。数年前、NHKが黒澤明の演出を盗作した事件があったが、その演出に関して、黒澤プロ側は事前の申し入れがあれば原則無料で使用させていた。このことはNHKの調整力の不足と不誠実によるものだと私は思う。
それにも少し関連してくるが、権利で話がもつれる時、たいていの場合それは、どちらか一方に不誠実がある。ジョージ・ハリスン事件のように無意識に他人と似た作品を作り上げた場合でさえ、世間の「誰でもわかる盗作を意識的にするわけがない」というポジティブな形で解釈される。実際、ジョージはほとんど何も失わなかった。盗作が発覚して名声が地に落ちる場合は、たいていバレないようにコソコソとやっていることが多い。そういう場合、世間も権利者厳しい。そこに「疾しさ」や「負い目」があるからだろう。また、この「疾しさ」や「負い目」はCreativity、創造性の欠如をクリアに表すものだとも思った。その点で、「疾しさ」のないパロディーは著作権侵害ではないと思う。
個人的に残念なのはパブリシティー権を紹介しときながら、それに関するコンテンツがあまりにも少なかったこと。ただ、これに関しては興味が沸いたので自分で本を買って勉強しようと思う。
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