2009年6月29日月曜日

【書評】無知の涙【勝部】

19歳にして死刑を宣告された連続殺人犯にして、後に文学者としても名を成す永山則夫の最初の手記。

高校生のある時期、どうやら私は犯罪司法学にただならぬ興味を持っており、その道の研究者になりたがっていたようだ。詳しいことは忘れてしまったが、「倫理学入門」とか放送大学のテキストを背伸びして読んでいた記憶がある。倫理の授業は学校に設置されていなかったが、倫理の用語集は買って誰に言われるでもなく勉強していた。用語集に関しては今でもたまに流し読みする。

この本はそんな中、「死刑囚の手記」ということで購入した。その道(死刑廃止運動など)の人にとっては、不朽の名作らしいが、私にとってはただの狭い視野に基づいた共産主義の礼賛にしか思えなかった。1960年代当時はまだ共産主義(社会主義でもいい)が理想とされていたし、現実的にも勝っていたのは知っている。しかし、過去の歴史としてしか共産主義を知らない私にとっては何のアピールも持たなかった。

今回読み直してみて、2つの再発見があった。1つは永山の詩的センス。本書の解説者も同じことを言っているが、頭から離れないような気の利いた文句が並べられていた。もちろん、全てがそうと言うわけではないが。

もう1つは、永山事件の動機と犯罪性についての見解の変化だ。そもそもこの本を手に取ったのは永山事件の動機を知りたいというのが大きかった。しかし、それについて最初の読書で知りえることはとうとう無かった。第三者たちは、育った劣悪な環境による歪んだ人間性を指摘したが、私は、もちろんそれも原因の1つだろうが、もっと他にある気がした。「動機がないこと、が動機」なのである。教科書的に言えば、「殺人による自己確認」になるのだろうか、個人的にはニュアンスが違うが。喪失感から不意に無言電話をかけたり、犯罪予告を投稿したりすることはよく指摘されることだが、永山事件はそれが殺人というセンセーショナルな形で表現されたに過ぎない。ゆえに永山は(少なくとも本書を書いている時点では)自分の事件に関して犯罪性を積極的に認めない。永山がドストエフスキーを好んで引用している意味も理解できた。

カフカに『審判』という作品がある。この作品は「主人公は、起訴されていることは良く知らされているが、その内容がどうも”理解”できない。けど、それは死刑に値するらしい。何も分からないまま、明瞭なのは罪だけしかない。」といういかにもカフカ的不条理の世界だが、ここには普遍的妥当性があると政治学者・矢野暢は言う。つまり一言で言うと、裁く側と裁かれる側は決して同じベクトルで思考することはないのだ。この部分を本書を読みながら思い出した。また、『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロ演じるトラビスにも通じる部分があると思う。ちなみに、永山は1997年、最後まで頑固な抵抗を見せながらも刑に処せられた。

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