メディア・リテラシー -世界の現場から 菅谷明子
本書は、私が高校3年生の時に小論文対策の一貫として購入したものだ。メディアにも興味があったことだし、よい機会だと思ってメディアという文字を見た瞬間手に取って見た。しかし、結局1ページ読んだ瞬間当時私が想像していたメディアの世界とあまりにも違ったため、読むのを断念していた。
2年後の現在、私は再び本書を手にとってみた。「リテラシー」とはきっと、メディアの受け手としてどんな情報が必要かを自分で判断するためのスキルだ、と当時思っていた。あくまでも受け手の立場として。
今度は1ページ目から内容がすらすら入ってきた。メディアリテラシーとは、自分が情報を発信する経験を通して身につけるものである。私はメディアコムに入る前、広告にとても興味があった。15秒、または30秒で、伝えたいことを表現する。よいコンテンツを創ることこそが醍醐味で、コンテンツがよければきっと視聴者も釘付けになるから商品の売り上げも上がるのだろうと漠然と思っていた。しかし、実際に広告の授業で、テレビCMはテレビ局が提供する枠を競って獲得する、そしてテレビ局側はなるべく高く枠を売ろうとする、もちろん視聴率の高い番組の枠は高くつくし、その枠を獲得できたからといってそのCMは成功するとは限らないということを学んだ。さらに現在従来の4マス広告は暗黒時代にあり、もはや今までのやり方では消費者の心をとらえることはできない、という現状をしった。その上で、では4マス広告の価値とは一体何なのかについてブレインストーミングをしてみたり、4マス以外のOH広告の新しいアイディアを考える、という機会があった。徹底的に広告の発信者の側に立ってみることによって、初めて自分の手元に届く広告の実態を知ることができた。以前友人に広告の授業のことを話したことがあるが、「キャッチコピー考えてるの?」という答えが返ってきた。高校生の時の自分もそうだったが、現在のメディアに興味を持つ日本の大半の高校生もこのような状態なのではないだろうか。アメリカやイギリス、カナダでは、すでに高校でメディア・リテラシーの授業があるそうだ。それこそメディアコムの授業ではないが、実際にドキュメンタリーを撮影したり、広告主とテレビ局のシュミレーションゲームみたいなものを行っているという。日本の中学や高校では、情報の授業はあるが、その内容は形骸化していたり、受けて側の視点しか持つことができない授業が多いように思う。現在の情報社会で、必要な情報を見分けるというのはもはや受け手としての視点だけでは不可能になってきているのではないだろうか。発信することを通したメディア学習も必要になってくるだろう。
2009年6月18日木曜日
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