2009年6月18日木曜日

【ホンヨミ!】がんばらない生き方【斉藤】

 がんばらない生き方 池田清彦

 まるで金ゼミと対極にあるような言葉だ。自己不啓発本といえるだろう。しかし、頑張らないで生きていく、とは決して簡単なことではない。この本に書かれていることは、生きていく上ですべてにおいていい加減に対処していくということではない。要するにメリハリをつけて生きろ、という内容に最終的には終着するので、やはり自己啓発かもしれない。しかし、最近世の中にあふれている自己啓発本のガチガチ感は決してない。
 がんばらないことも意外と難しいのである。がんばらないこと、を自分で判断していかなければならないからだ。自分にとって高校時代はとても生きやすかったように思う。なぜならばそれはがんばっていたからではないだろうかと思う。高校では受ける授業も部活も大学受験もみんなやることは同じで、既にある程度達成すべき目標は決められている。私たちはその目標に向かってがむしゃらに努力すればよかった。そして努力した後には、ああ自分は頑張ったなあ、という達成感を得ることで満足できる。頑張ることで得られる対価はある程度予めわかっていたため、それに向かって頑張れば満足できる、という構造内で生きていた。しかし、大学に入ってその構造は崩れ去った。高校とちがって大学にはさまざまな選択肢が登場し、しかも誰も自分が最終的に達成しなければならない目標を設定してくれない。もうむやみにがむしゃらにがんばる、というある意味マニュアル通りのことはできないのだ。その中で、自分のやりたいことは何なのか、目標はどこにあるのかを自分で判断していかなければならない。それを見極めることができないと、当時感じていたような満足感を得るために、目先のこと、たとえば授業や試験を目標として、どんなにそれが自分にとって合っていなくて辛いことでもまたがむしゃらにがんばる。そしてがむしゃらにがんばることができないと、自己嫌悪に陥ってしまう。そこで考えてみる。はたしてそのがんばりは本当に必要なのだろうか。授業や試験は、目標・目的なのではなく、手段である。手段をがんばることを生きがいにして、それが上手くいかないと自己嫌悪に陥るとは、なんて苦しい生き方なのだろう。生物学者の著者池田さんは、人間の脳にはある程度限界があり、それぞれ人にはどう頑張っても成果が出ないこと、というものがある。それが自分のやりたいことで、目的と決めたことならまだしも、手段であるなら、そのがんばりは捨ててもいいのではないだろうか。とはいっても、がんばらない、と決めるためには自分ががんばるべきこと、を決めていることが前提だ。それを見定めていくのは難しいことだ。それを決めていくに当たって、人間はまた損得勘定というものが出てきてしまうのだが、たまにはそのようなものを捨ててしまうのも大切だ。損得勘定のない人間関係、趣味などは人生を豊かにするものだ。先が見えずらい現在だからこそ、単純に「今」を楽しむ、という楽な生き方は時に人生に必要になってくる。しかしこれがまた難しく、結局私たちは先のことを考えて行動してしまう。それで正しいこともあるが、ときには先が見えなくて辛い、ということもあるだろう。そうなると自己嫌悪のスパイラルにはまっていくので、自分で脱却していかなければならない。その脱却法として、手段に執着しないこと、無駄ながんばりはしないこと。これは一つの方法にすぎないが、硬直してしまった心を解きほぐす視点の変換になるだろう。

 今心が硬直して、自分に満足できないで苦しんでいる人はこの本を読んでみるべきだ。よい視点の変換になり、とても心が楽になるだろう。

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