日本独特の概念である「甘え」を構造的に解き明かした本書。土居健郎は著名な精神科医で、その臨床体験から着想を得て、「甘え」の発見につながった。
正直言って、まだこの本を100%消化できていない。読みやすいが元は学術論文なので、少しタフな思考を要求される。だから、できればもう一度読んでみたいのだが、今回でも得たものは書評を認めるほど大きいと思う。
「甘え」は日本独特の概念だということは既に述べたが、もっと重要なのは、それが社会の「構造」として浸透している点だ。例えば、土居氏は日本の天皇と言う存在も「甘え」の世界を理想化したものを発露とする捉えた。天皇は身分上は日本の最高に位置していた、あるいは捉え方によっては未だに「位置している」のだが、実際には何もしない、依存度の高い赤ん坊同然の状態だ。これは天皇が「甘え」を以って成立していると言えよう。つまり、日本という国においては「甘え」ることが、理想だということが暗示されているのだ。これと同じことが、「素直」という感情に日本人が高い価値を置くことに関してもいえる。
この事実に対し、土居氏は「幼児的依存を純粋に体現できる者こそ日本の社会で上に立つ資格がある
」という見解を示している。この一文を見て、私はリクルートの江副浩正氏の「僕には能力がないから社員に働いてもらった。」という謙遜の言葉を思い出した。日本のリーダーは博覧強記であるのは大前提であるが、それでも一人で持てる知識には限界はある。だから、それ以上に「甘える技術」を持っていなければならないと私は思った。つまり、「甘える力」はリーダーにも求められているのだ。
一つ、僕の中でまだ消えぬ根本的な疑問がある。それは本当に「甘え」が日本独特のものであり、それゆえ日本語のみの概念だと言い切れるのかという点だ。例えば、幼児期には親に対する「甘え」が必要でそれを欠けば、生来の人格形成に大きな欠損を与えると土居氏は臨床経験から述べている。私はこの場合の「甘え」をAffection、つまり愛情だと思った。詳しくどこかは忘れてしまったが、読みながら「甘え」はdependではないかとも思った。また、他の学者が言うように「子犬だって甘える」、だから日本独特といえないのではないか。しかし、この事実自体が、「甘え」を特別な概念にしているのかもしれない。場合によってはaffectionにもdependにもspoilにもなる多元的な言葉、それが日本という国をシンボライズしているのかもしれない。
「甘え」の世界は思った以上に深く、このままでは3冊読み終わらないと思ったので、早めにスキッピングして終わらせました。もしかしたら、また同じ本、あるいは続編本の書評を書く可能性があることをご容赦いただきたい。
2009年6月18日木曜日
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