2009年5月27日水曜日

【書評】天才の読み方【戸高】

齋藤孝著『天才の読み方』

 ピカソ、宮沢賢治、シャネル、イチローといった一見タイプの違った四人に見えるが、その四人に共通するのは「膨大な量」の努力をこなしながら、その都度工夫、分析を繰り返し、自分のスタイルを追求することができた人物である。
 日本人は天才と聞くと、文字通り「天賦の才に恵まれている人間」といったイメージを抱きやすく、努力は二の次と考える。自分自身もそう考えている節があった。
 しかし、もちろん天才も努力はしている、それも「膨大な量の努力」を。よく努力をできる才能が一番重要というが、それは間違いないだろう。では、天才ではない人々、つまり凡人は努力をしないのだろうか。
 凡人でも努力はする。そして何か向かうところがあれば、朝から晩までその努力を惜しまないこともあるだろう。自分自身、東大を目指していたころは、休日だと13時間勉強にあてたこともあった。でも、メジャーリーグで活躍するだとか、後世に残る偉大な作品を残すだとかそんな偉業ではなく、たかだか東大に入るといったことさえもかなわなかった。
 では、そこに天才と凡人のどこに差異があったのかと考えると、その努力を苦と思ってやるかやらないかだと思う。いくら夢の実現のためとはいえ、一般的に努力を継続することは肉体的にも精神的にも辛いものだ。それを天才は楽しんで行うことができる。一般人にはなかなかできることではない。
 天才が努力を楽しんで出来るということは、もちろんその行為自体が楽しいと思える感覚もあるからだろうが、やはり問題意識を常に持って、自分の向上のためにその努力を行うことができるからだろう。ただ数をこなすだけではなく、自分がいかにそれをインプットできたか、アウトプットできたかを常に意識に入れておくことで、その努力の仕方というのも単調にはならないだろうし、いつも新たな発見がある。
 ただやみくもに努力をするのは、努力をするきっかけの際だけでいい。常に問題意識を持って生きていきたい。

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