2009年12月9日水曜日

書評 山月記 中島敦著

山月記は、高校時代大好きだった現代文の授業で扱った物語だ。扱った他の話はエッセンスこそ残っているものの、タイトルや著者、具体的な引用はほとんど忘れてしまっているが、この話だけは強烈にインパクトが残っている。

漢古文と現代文を巧みに昇華させた中島敦以外には書けないであろう華麗な文体もさることながら、僕には野獣に堕ちた地元じゃ負け知らずの男、李徴の生き様が心に染みている。

「己は努めて人との交流を避けた。人々は己を据傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。」

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」

この話は二つの重要な教訓を僕に与えてくれた。一つは、努力は才能を容易に凌駕すること。どれだけ才能(や天才なんてものは、負け犬の言い訳にすぎないと僕は思っているが)があっても、それを磨かなければ光ることはないのだ。しかし、僕は努力という言葉もあまり好きではない。なぜなら、夢中になれば努力などという言葉は不要だと考えているからだ。夢中になれるか、なれないか、そこが問題だ。僕は何の取り柄もない、不器用で、だらし無い男だが、夢中になったものでは誰にでも負けない自信がある。夢中になれば勝ったも同然だ。

もう一つは、周りの人々へのリスペクトを忘れないことだ。李徴のような勝つことになれた人間にはアロガンス(傲慢)は靴下のように当たり前に身につけているものだ。しかし、それは思いがけず自分に対するダメージになる。能力のあるものほど、謙虚さを装うのは、これを知っているからだ。自分に持ってないものを一つでも持っている人に対しては尊敬の念を忘れてはならない。尊敬することから学ぶこと、自分を成長させることは始まるから。

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