2009年12月11日金曜日

【ホンヨミ!1211①】知識デザイン企業【戸高】

紺野登著『知識デザイン企業』


 デザインという言葉の定義は人の数だけあるように僕は思う。僕なりのデザインの定義は「人が抱えている潜在的、もしくは可視化されている不満を解消し、また解消するためのプロダクトで人が楽しいといった感情を抱き、そこには存在しなかったコミュニケーションが生まれること」である。
 例えばこの本にはインシュリン注射の針を細くしたことで子供でも苦痛でなくなったとのエピソードがあった。それは子供には怖い注射のイメージを払拭させ、苦しいという概念を取り除いたものだ。そうして子供と注射の関係性がいいものに改善されたのだ。


 現代はモノ、それも「いい」モノが溢れかえっている言わば「飽物の時代」である。そんな時代にちょっと新しい商品を出してもすぐにコモディティ化されてしまい、価値を失ってしまう。
 そんな時代だからこそ筆者は知識デザインが必要になってくると述べている。知識デザインには、既にあることの見える化をし、まだ見えないものに新たなイマジネーションをすることで価値を創出する。そしてそういった潜在的なニーズをプロダクトにする際に、そのプロダクトと、多様な要素を統合する(コンポーネント、ソフト、サービス、システム、ブランド)必要がある。
 例えばappleのiPodを考えてみよう。iPodはハードウェアとしてのデザインは裏面が鏡面仕上げで美しいのはもちろん、ユーザープラットフォームとしてのiTunes、サービスプラットフォームとしてのiTunes Music Storeといったように、モノとユーザー経験に関わる領域、サービス、ビジネスに関わる領域を統合して発売された。これはiPod以前の携帯音楽プレイヤーにはなかった発想である。


 では、そういった知識デザインはどのように行えばいいのか。まず知識デザインの知には2つの種類が存在する。「体験的認知」と「内省的認知」である。これらのどちらが欠けても知識デザインは成立しない。
 「体験的認知」とは、文化人類学的フィールドワークを必要とし、顧客との直接の関わりで理解することが出来る、まさに自分が顧客のことをその立場になりきることで理解しわかる知識である。
 一方、「内省的認知」とは、全体に調和、まとまりをもたらす俯瞰的な姿勢である。
 つまり、知識創造時代の企業は、顧客と常に接点を持ち、顧客の要望に応えて製品を調整、進化させ、その多様な知を統合していく姿勢が必要とされているのである。よって、「体験的認知」「内省的認知」どちらが欠けていてもだめなのだ。


 話を先ほど出したiPodに戻す。iPodが知識デザインの「体験的認知」と「内省的認知」をつきつめるだけで発明されたかというと怪しい。裏面を鏡面にそれを磨き上げるデザインだとか、iTunesといったプラットフォーム設計までは顧客を観察しているだけではわからないだろう。
 iPod、appleのモノ作りは単なるモノ作りではない。appleにおけるモノ作りは概念作り(再定義し、自分で再構築する。例えばiPhoneだと自分で携帯電話の意味を再定義し直したいい例だろう)、物語作り、経験作りである。これにはジョブズの能力が深く関わって行きているのだが、ではジョブズのようなカリスマがいないと一般人は太刀打ちできないのか?
 そんなことはけっしてないだろう。たしかにiPodみたいな革新的製品は作れないかもしれない。しかし、徹底的にユーザーを観察し、そこで見つけたニーズを内省的に統合していくことで、ユーザーへの課題解決にもなるし、そのプロダクトを通して楽しい生活、コミュニケーションを生じさせることは出来るだろう。
 一般人がカリスマと渡り合うためのツールがデザイン思考なのではないだろうか。

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