2009年6月26日金曜日

【書評】衆愚の時代―「神々は渇く」の政治学【勝部】

本書の驚くべきは、矢野暢先生の無残なまでの先見性だ。天安門事件から中国共産主義の本質、ソ連型共産主義よりも伝統的な「アジア的不条理」、を明らかにし、その後の中国の大国化を予言している点は感嘆した。私が生まれた1989年に、矢野暢先生を除いていったい誰が今日の中国を思い描けていただろうか。

「体制」から「文明」へのシフト。冷戦の終結により、社会主義とその敵という構図が消えた。その代わりに、ヨーロッパ文明圏、アメリカ文明圏、中国文明圏といったような文明ブロックでの固有の法則ができるだろうと言っている。この時点である程度予言は的中したわけだが、私はここでは直接触れられていないが、イスラーム文明圏とアメリカ文明圏の対立がイラク、アフガン戦争の対立だと思った。それはある意味で宗教的対立以上のものを持っている。また、本書ではベトナム戦争に関する考察が深く掘り下げられていた。「アメリカ人はベトナム戦争を個人化する」ことで、それを自分の戦争とした。その点で、過去における国民戦争とは姿勢が明らかに異なる。であるからして、ベトナム戦争は「市民」戦争と化した。その結果、ここにも「神々」が現れて、アメリカは敗北した。よくアメリカ政府はベトナム人に負けたのではなく、アメリカ人に負けたのだと言われるが、少し違うと思った。ましてや、アメリカ軍がベトナム軍に負けたわけではない。一人ひとりのアメリカ人が自分自身に負けたのだ。

矢野先生は「衆愚」と「神々」の正体を明らかにしている。一言で言えば前者は「反知性主義」後者は「人間的未熟さと政治に疎外された歪んだ人間性」だとしている。現代の日本やアメリカにおいては暗殺や暴力クーデターなどという愚行が起こる可能性は低いが、「衆愚性」あるいは「神々性」をどこに見ることが出来るのだろうか。それは「せっ頭」という「何らかの原因で政治家が辞任に追い込まれる」という現象に見られると矢野先生は指摘する。それはマスコミを通して匿名性を持った神々が演じる。
私はこの「衆愚」と「神々」の中に、都市に生きる現代人の「抑えられない悲しみと怒り」のようなものを感じた。物質主義の逆説、いくら物質的に満たされるほど心は渇き、不幸になり続ける。そのやり場のない渇きを現代人は怒りをこめて糾弾する。反知性主義はその欲望が満たされないがゆえに、さらに満たされようと貪り続ける。そこにあるのは文明的ニヒリズムだけだ。

また、衝撃的だったのが、「独裁者」とあだ名されたマルコスやブレジネフが過去においては人間的魅力に富んだ素晴らしい政治家であったことを矢野先生自身が実際にあったとき認めていることだ。どんな素晴らしい政治家でも独裁者になりうる。それは「衆」との相互作用が働いているとしか思えない。

散々褒めてきたが、この矢野暢先生は、お笑いのくりーむしちゅーの有田の親戚で、彼がよくネタにする「偉すぎて親戚でも一年に5分くらいしか会えない大学教授の叔父さん」その人である。この話には落ちがあって「その叔父さんが晩年セクハラで訴えられた。」いくら先見性に富んだ矢野先生でも自分自身が「せっ頭」されることは思っても見なかっただろう。違うか。

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