2010年3月13日土曜日

相手にするもの

こんにちは、春休み二回目の投稿です。金光です。

昨日、ドイツから来た親子と一緒に東京観光したときのことを書こうとしてなかなか上手に文字にできませんでした。もう少しうまくまとめられそうなら、加筆訂正するかもしれません!!

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初対面の相手と慣れない英語で見慣れた場所を歩く…という一日を通じて感じたことは、自分がこれまでやってきたこともこれからやっていくことも、すべて、目の前にいる「個人」を相手にするもの。その人に関する情報やら肩書きがあっても相手にするのはその肩書きじゃなくて自分とおんなじ一人の人間なんだ!ということです。

これは、昨日一緒に一日歩いた彼らがとても思いやりのある素敵な人だったから感じたことでした。そしておそらく、不自由な英語を使ったことで、言葉でカバーできない部分を表情や行動、しぐさから読み取ろう、と体じゅうの感覚器官が敏感になっていたからこそ気付いたことだと思います。
ともすれば、普段気にならないようなことが気になってしまって落ち込んだりする可能性だってあったのに、彼らの接し方のおかげで私は楽しめただけでなく、こうして考えるきっかけももらえました。


昨日の朝、待ち合わせの場所で自己紹介するまで、私に与えられていた彼らの情報は名前、ドイツから初めての日本観光、父の同じ系列の会社で働いていること、くらいでした。(旅行客にとって滞在中の一日は、住んでいる人の一日よりもはるかに貴重で楽しみな時間。それをこんな小娘が、しかも英語もままならないし方向音痴な私が案内しちゃっていいのか?!と思いながら緊張していました。)

その時の私はその数少ない情報からいろんなイメージを持っていました。ドイツ人だからやっぱり大きいのかな、ビール腹だったりして…などなど。それはすべて属性からくるイメージでした。

でも一日を共に過ごして私の心に残った印象は、彼ら一人一人の行動、しぐさ、言葉であり、ドイツ人だから~とか理系だから~という内容ではありませんでした。

こうして言葉にしてみると当たり前のことです。遠く離れた国から来て違う言葉の大人でも、実際に自分が話すのは一人の人間。もし相手がどこかの社長でも石油王でも、自分が話したり接する相手は会社でも油田でもなく、一人の人間なんだ!ということです。


じゃあどうして私は今までそれに気付かず、昨日それを再確認したのか?
第一には、最初に書いたように、彼らの優しい心遣いが自分の力不足を救ってくれたからだと思います。理解しやすいように違う表現で言い換えてくれたり、二人がドイツ語で話したあとに、「(二人にしかわからないドイツ語を使って)ごめんね、ただドイツ語のほうが理解が早いから、ただそれだけの理由なんだ!」とフォローしてくれたり、一度ホテルに戻ったときも私が一人にならないように、二人が順番に部屋で用事を済ませてくれたり…
昨日の私には「目の前にいるこの人」の現在の状況しか、その人自身について判断する材料がなかったからこそ、一瞬一瞬を感情としても情報としてもダイレクトに吸収しました。もし相手について私がもう少し余分な予備知識があったなら、感じることをその情報と結び付けてとらえてしまっていたと思います。普段そういう接し方に慣れてしまっていたからこそ、限られた情報、限られた(英語)能力の中で気付いたことでした。

第二に昨日は自分一人に責任が与えられていたことです。案内役の準備をしながら考えた不安なイメージと、それを払しょくした数々の出来事は、一人だったからこそ感じられたことでした。



自分が接するのは一人の人間なんだ!ということ。
もちろん、相手が「ただの一人の人間」ではなくいろいろな付加価値がついているからこそ契約や取引が成り立ちます。会社の権力者だったり、国民の代表だったり。人によって発言の影響力もさまざま。でもだからこそ、会社名や名声のような表面だけに流されるのは違うな、と思いました。知名度がその人の魅力なのか、その人自身が魅力的なのか。それを見抜けるようにならなければいけません。そしてもちろん自分自身が魅力的でいられるよう努力しなければいけません。
ただ、自分が向き合ってるのも、人間!というくらいの気持ちで、力にびびってしまう必要はないと思います。

だからといってきれいごとだけではなく、自分がいくら魅力的でも仕事ができないと人生はあまりうまく進みません。でも、たとえば取引をするとして、自分の契約を成功させたいのならなおさら、いかに契約相手のその人自身と付き合うか、人として心を動かせるか、じゃないのかなと感じました。相手を通り越して、その裏に背負われているお金や事業の規模ばかりに目がいっても決して成功しないと思います。
一人の人間ということを意識すること、それは相手を尊敬するのでも、見下すのでもなく、対等に感じること、だと思いました。
そしてそれはたとえ言葉がうまく通じなくても相手に伝えられるかもしれない、と感じることができました。

1 件のコメント:

  1. 社会人になったら、学校のクラスみたいにお互いをわかりあう時間なんてなくて、会ったら名刺を交換して、これまでのその人の「成果」でその人を判断するしかなくなってくるのかなって感じがする。
    肩書きじゃなくてその人を見ること、同時に短い時間でも相手に興味を持ってもらえるような深い人間になることが大事だなって読んでて私も思ったよ。

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