2009年8月1日土曜日

【ホンヨミ!】会津藩什の掟-日新館が教えた七カ条【大賀】

中元寺智信著「会津藩什の掟-日新館が教えた七カ条」(2007年、東邦出版)
2009年7月26日読了

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 7月26日から29日にかけて、私は福島県会津へ一人旅へ赴いた。周知の通り歴史が好きな私は、「趣味の一環」として旅に出たわけだが、その他にも目的はあった。それは、「武士の子どもたちに対する教育」がどのようなものだったのかということについての調査をするためだ。そこで私は、「武士の子どもたちに対して優れた教育」を行っていたという会津藩の藩校「日新館」を訪れ、フィールドワークをすることにした。現存している「日新館」は、史料を元に正確に再現されたものだ。そこで購入したのが本書だ。
 会津藩士の子どもたちは、10歳になるとこの藩校「日新館」に入学した。それまで、すなわち6歳から9歳までは「什」と呼ばれる地区内のグループに属し集団行動をしていた。そのグループは、同年代の子どもたちが作るもので、一番年上の子どもが「什長」と呼ばれるリーダーを務めていた。単なる子どもたちの縦割り班だと言ってしまえばそれまでだが、「什」の中には厳しい規則があった。そしてその規則は、藩校に進み学びを進める上でも重要となる、いわば「武士の心得」と言うべきものだ。それが「什の掟」である。掟は七カ条にわたっている。全て、「武士道に反することをするな」というものだ。掟の最後には次のような言葉が添えられている。「ならぬことはならぬものです」-つまり、駄目なことは駄目なのだから文句を言わずに守りなさい、というものだ。
 「子どもたちに対して何て厳しい教育をしていたのだろう!」-多くの人はそう思うことだろう。現に私も、本書を読むまではそのようにとらえていた。しかしこの「掟」から始まる教育は、いわゆる「大人から強いられた」現在の教育とは異なっている。子どもたちは、自分たちが気持ちよく遊ぶために必要な規則として「什の掟」を用いていたのだ。そしてそれを奨励していたのは藩、すなわち大人たちだった。つまり、当時の大人たちは、「普段の遊びの中で子どもたちに(武士として必要な)道徳や社会性を自然に身につけさせていた」のである。

 「会津藩」は幕末戊辰戦争において「朝敵」とされ、悲惨な戦争の敗者となってしまった。それゆえに、会津藩の教育体制も「敗者の歴史」の中に忘れ去られることが多かったという。しかしようやく現代になり、「什の掟」をはじめとする教育の精神が見直され始めている。現代の世の中において、どのような教育が必要とされているのか。・・それを考える、良いきっかけになるだろう。

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