白/原研哉
「白について語ることは、色彩について語ることではない。それは自分たちの文化の中にあるはずの感覚の資源を探り当てていく試みである。」
まえがきの冒頭を引用した。
正に、自分自身の文化の源を探っていくような本だった。
白をはじめとして、色とは全身感覚のものだ。例えば紅葉を見たとき、その赤黄の艶やかさにはっとするし、白黒テレビの独特のノスタルジアも視覚だけで説明されるものではないはずだ。色の全身感覚は、日本の伝統色の名前を読むときにも沸き上がる。浅葱、萌黄、淡香、その独特の色合いに思いを馳せると、微細な感覚が目覚めていくような気がする。日本の伝統色が持つ、微妙な味わいがそうさせるのだと思うが、一見単なるまっさらな状態である白には、その微妙な味わいがあるのだろうか。
白とは、混沌とした世界の中からくっきりと浮かび上がったものだ。そして、空っぽで無意味なものではなく、何かがそこに入る予兆を持つ色だ。(本書ではそのことを「機前」と表現している)
つまり、白はさまざまなものを吸収する可能性を持つ色なのである。そこに何が入るのかというと、例えば書だ。電子メディアが幅をきかせようとしている昨今だが、メディアの本質は、人の創造性・コミュニケーションをいかに刺激するかだ、と筆者はいう。白くて独自の質感を持ち合わせる紙に向かうとき、人のイマジネーションは刺激される。頭の中でもやもやしているものも、紙に書き出すことですっきりまとまることがある。白い紙には、多くのものを吸い込む力がある。そして、紙は一度ものを吸い込むと、それを容易に消すことが出来ない。一度浮かび上がった白に形を付けて固定するのが書の役目だ。だからこそ、緊張感を持って人は白い紙に向かう。そこが、すぐにデリート出来る電子メディアとの違いではないだろうか。一度しか立ち向かえないものだから、書や絵画には独特の重みと美しさがある。筆者が言うには、電子メディアには、自分がアウトプットしたことが世界中の人に見られるという、紙とは違う意味での緊張感があるとのことだが、私はやはり、書物の魅力は電子メディアでは替えられないものだと思う。
可能性を呼び込む白は、日本文化の本質にも通じるものがある。自然という、一日ごとにうつろいゆくものを色として名付け、至る所に偏在し、如何様にも感じることの出来る存在を神とし、必要最低限の調度品のみを置いた床の間を住処とする。
自分の好きな日本の伝統は、白という概念をもって語ることが出来るのだという発見が、本書を読んだ最大の収穫である。
2009年12月6日日曜日
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