お伽草紙・新釈諸国噺ー「浦島さん」/太宰治
現在国文学専攻の原典購読で、かの有名な御伽草子の浦島太郎を翻刻(変体仮名から現代の文字に直す)、現代語訳、鑑賞を行っている。もちろんこの作業では、当たり前であるが内容を楽しむわけではなく、変体仮名解読を目的としているのだが、同時に重要なのは鑑賞だ。御伽草子とは一体何かというと、室町時代中期から江戸時代中期にかけて流布したさまざまの物語の総称である。浦島太郎もその一つで、これは明治時代に入ると幼児向けの昔話化が始まる。私たちが幼いころに読んだ記憶のあるものは、実はこの明治以降のものだ。授業で扱ったのは室町時代から江戸時代に絵巻や絵本として存在したものだ。これは話の筋は明治以降のものと大方同じであるものの、多少異なる点がある。例えば明治以降の昔話化したものでは、浦島太郎が亀に連れられて竜宮城に行くことになっているが、それ以前のものは「蓬莱の世界」(不老不死の極楽のような場所)に行くことになっている。
本書は、太宰治が御伽草子を独自の視点でパロディ化したものである。今回私が読んだのは浦島太郎のパロディである「浦島さん」だ。このパロディと、蓬莱の世界を舞台にした明治以前の浦島太郎を比較したい。まず、私が本書を選んだ理由としては、このパロディには太宰治自身の、当時の日本人に対する冷静な視点が垣間見え、それが当時のみならず現代の日本人思考にも共通する側面であると思ったからである。本パロディは、比較対象となる御伽草子の浦島太郎よりも、より日本的思考が反映されていると言える。そもそも蓬莱の世界とは、中国の伝説で、しかも不老不死とは中国伝来の思想である。御伽草子の浦島太郎では、やはり彼は蓬莱の地で知らぬ間に何百年もの月日を過ごし、人間界に戻って玉手箱の白い煙を浴びて、一気に年老いてしまう。その後、浦島太郎は長寿の神のような存在として祀られることになる。このように、御伽草子では長寿(それも果てしない)が限りなくめでたいものとされている。これは不老不死という中国伝来の価値観が反映されているのだろう。本パロディでは、まず主人公である浦島太郎は、自身の「風流さ」にある程度自信を持って生きており、俗世界の人間が互いにがやがやと罵り批評し合いながら生きていく様に軽蔑の念を持って生きているという設定になっている。そこへ亀がやってきて、浦島を竜宮へ連れて行く。この過程で亀との会話が多く描写されているのだが、その会話を通して亀は浦島の自惚れ心を痛烈に批判する。人間である限り、決して「俗性」からは離れることができない、と。それに対して竜宮には全く「俗」というものが存在しない。罵りも批判も、暑さも寒さも死さえ存在しない。浦島は最初こそこの環境を絶賛するが、徐々に批判や罵り、そして日々の生活に明け暮れる俗世界が恋しくなり、結局戻ってしまうのだ。このパロディでももちろん浦島は竜宮土産をもらい、その中の煙に対面することになる(この先は明確には記述がなかったが)。太宰治は、この結末について「年月は、人間の救いである。忘却は人間の救いである。」と記述している。物事が永遠に続かないことにより、人間は選択を迫られるし、全てが許されるということはない。そうであるから、互いを批判したり、競争が起こり、日常にかまけることになる。結局人間(日本人)の性格はこうである・・・という太宰治の諦念のようにも感じるが、このことは大いに現代の日本人の性格にも当てはまるのではないだろうか。何かに迫られているからこそ、より有意義な時間を、よりよい仕事を、より充実させた人生を、選択・獲得していくのに必死である。そしてまたその状態が心地よいのである。心の根底では不老不死などは欲していないのではないだろうか。
私たちがこのような御伽草子を手に取る機会はもうない。しかし、幼いころに慣れ親しんだ昔話を今一度冷静な視点から俯瞰してみると、ある種のブラックユーモアのような、日本人の真意をつくような視点を得ることができる。その点でこのパロディはかなり読んでみる価値があると思う。
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