姜尚中著『悩む力』
現代という時代はモノに溢れ、ただ生きていくだけなら何も不自由しない時代だ。
そんな時代だからこそ、自分ということは何なのか、つまり「自我」について悩む人間が少なくなってきているのだという。
「自我」について悩む時代の1つとして「青春」時代がある。実際に本著の中でも1つの章として「青春」時代が取り上げられていた。
自分自身、今年のゼミ生活を通して、「青春」というテーマに挑んでいた時期があったので、その部分にフォーカスしてこの書評を書いていく。
日本人は「青春」を美徳と考えるポジティブな側面と、若気の至りと考えるネガティブな側面の両方持っている。
中高生が「自分とは何なのか」、また「どうしてあの娘は振り向いてくれないんだろう」といった風に悩んでいたら「青春だなー、若いっていいなー。」といった美徳的な反応が期待される。
しかし、いい成人が、同じようなことに悩んでいると、「お前、いい歳して青春気取りかよ。」といった風に嘲笑されかねない。
本著の中では、「青春とは無垢なまでにものごとの意味を問うことだ」と、「青春とはなんなのか」という問いに答えはないものとしながらも定義づけている。
しかし、モノに溢れる時代に生きる若者は無闇に物事に悩まないのだという。
そういった若者は表面的に老成しているのだというが、青春時代特有の悩みを経験せずに、老成しているだけで、底の浅い人間で終わってしまうのではないかと筆者は疑問に思っている。
例えば、受験戦争が激しく、また大学生の勉強に対する姿勢がストイックであることを韓国合宿を通じて実感したが、実際に筆者は韓国の学生に対して疑問を抱いている。
その疑問は、「自分がスキルをつけるために、勉強に終始した青春時代(と呼ぶべき時代、10代)を過ごしてしまうと、人間関係も浅くなり、ある種の精神的インポテンツに陥り、空漠としたものしか残らないのではないか。」といったものだ。
「社会に出ると、否応無しに対応しなければならないことが増え、自分について、自我について悩んでいる暇はなくなるだろう。だからこそ、若いうちに悩み、意味を問い続けねばならない。」
というのが筆者の主張だと思う。しかし、そのような悩みは意識的にするものではないと思うし、韓国の大学生もそれなりに青春時代を過ごしているのだと思う。実際に韓国の学生街は日本の、特に田町なんかよりは数倍活気があった。
たぶん誰しもが無意識的に「青春」をすごしているのだ。
では、私が考える「青春」とはなんなのか。自分なりの定義をしておきたい。
「男は本気になった時が青春だ」
これは1月に公開される映画「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のキャッチコピーである。
青春ぴんくの時にも言っていたが、「青春」に年齢は関係ない。本当に、「本気になった時」が「青春」だと思う。あることに本気になればその過程で自分に対して、そのこと(人間関係でも目標でもなんでも)に対して色々悩むだろうし、そこでさまざまな試行錯誤や駆け引きが行われるだろう。そんなことに年齢など関係ない、「生涯青春」なのだ。
また、成人が「青春」を語ることは嘲笑されるといったことを、先述したが嘲笑すべきことでもないと私は思う。
「青春」や「若々しさ」、果てには「こどもらしさ」といったことは捨てるべきではないものだ。
特に自分が何かに取り組んでいる時に、そういった精神を忘れてしまえば、本気でそのことに取り組めなくなるだろう。
以前、マイケル・ジャクソンの『this is it』を見てきたが、スクリーンに映るマイケルはまさしく「こども」だった。
徹底的によいもの、よい音楽、よいステージを作り上げるために、自分のこだわりを捨てない「こどもっぽさ」が彼の中に垣間みることができた。
どうしても捨てきることができない自分なりの正義を持っている人間こそ強いと私は思う。
そうした「青春心」を常に抱いて生きていきたい。
2009年12月29日火曜日
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