2009年8月20日木曜日

自称・歴女の夏休み~史跡巡り日誌その1~

 14日ブログ担当の大賀です。お盆休みの親戚襲来や旅行が重なり、ブログアップがすっかり遅れてしまいました。申し訳ありません!というわけで皆様お待たせ(?)致しました!Twitterなどで散々呟いていましたが、ちゃんとした形では残せていなかったので、夏休みの旅行記をアップしたいと思います^^まずは7月26日~28日にかけて一人で赴いた福島県会津から★


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 私が会津という土地に赴くのは2回目でした。昨年の秋に家族で行ってから、その魅力にすっかりとりつかれてしまいました。会津は、いわば、歴史が生々しく残っている場所です。かつてその地には会津藩と呼ばれる藩がありました。初代は保科正之という人で、徳川家2代将軍秀忠の子であり、また3代将軍家光の異母弟でした。会津藩は徳川家の血を色濃く継ぐ家系により統治を行われていた場だったのです。保科正之自身もそのことに重きを置き、会津藩の「家訓」として次のような言葉を残しました。「会津藩はたるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と。何があっても徳川将軍家だけは裏切るな-このような保科の教えは、歴代会津藩主及び藩士たちにも受け継がれ、やがてそれがひとつの「悲劇」を生み出すこととなるのでした。
 時は幕末。会津藩9代藩主松平容保もまた保科の教えを胸に、衰亡する徳川家を守るために心血を注ぎました。「京都守護職」という役職につき、尊皇攘夷派の志士(天皇をたてて外国を打ち払おうとする考えを持ち各地でテロ行為を行っていた人々)たちを取り締まる役目を全うしました。ちなみにこの京都守護職の配下にあったのが「新選組」です。(私が会津に惹かれた一番のきっかけはそこにあります)しかし徳川家の力が衰え、薩摩藩及び長州藩といった「倒幕派」の力が強まるにつれて、やがて会津藩も窮地に陥ることとなります。倒幕派が明治天皇を奉じ新政府軍となると、会津藩は必然的に「朝敵」(天皇の敵の意)とされ、集中攻撃を受けました。ちなみにその時既に幕府は新政府軍に対し恭順の意を示し、大政奉還をしています。会津藩は最も忠誠を誓った徳川家にさえ見捨てられ、「捨て駒」として新たな日本の礎となる役割を担わされてしまったのです。
 1868年6月より三ヶ月間続いた会津若松城下での戦争(会津戦争)では、婦女子をも含む多くの人々が死亡。会津藩の居城鶴ヶ城は一ヶ月間にも及ぶ籠城戦が繰り広げられたために、見るも耐えないぼろぼろの姿に変わり果てました。そうして日本は夜明けを迎え新たな時代「明治」を切り開きましたが、会津藩の人々の苦しみは続きました。会津藩の人々は「斗南」という本州最北端の荒野に「流刑」され、またどんなに能力があろうとも長い間新政府の政治体制に参加することができず、差別を受け続けました。白虎隊の悲劇などが世に知られるようになり、人々が「会津」という土地の持つ歴史の尊さを知ったのはつい最近のことだそうです。

 会津は美しい場所です。雄大な会津磐梯山、美しい鶴ヶ城、美味しい食べ物を作る大地。しかしこの地が多くの人々の血に染まったのはつい100年前のことなのです。その証拠に、未だに生々しく、会津の人々の間には戦争の記憶が残っています。(それがその人本人の持っている「記憶」ではないいにしても)長い長い世界の歴史から見ればほんの些細なことかもしれない。けれども私はその一瞬に、どうしようもなく惹かれるのです。


●鶴ヶ城(若松城)

 会津藩主の居城。会津戦争で破損し、1874年(明治7年)までその痛々しい姿のままだったが、その後取り壊された。その後1960年に再建され、現在に至る。内部は博物館となっていて、会津藩の歴史や資料を参照することができる。とても綺麗なお城です。

●鶴ヶ城から見た飯盛山

 白虎隊の悲劇で有名な飯盛山が、紅白の棒の後ろに見えます。白虎隊とは、会津藩が編成した藩士たちの隊の中でも年若い、15歳から17歳までの少年たちの部隊のこと。彼らは戦いの最中指揮官と離れ、自力で飯盛山に辿り着き、そこから燃えさかる鶴ヶ城を見て「城が墜ちた」と誤解をし(実際には城下町が焼けていただけでした)もはやここまでと、皆切腹をして果てました。唯一生き残った飯沼貞吉氏が後にそのことを語り、白虎隊の悲劇は世に知られることとなりました。

●会津藩校日新館

 会津藩に建てられた武士の学校、藩校です。10歳になると武士の子供はここに通い教育を受けました。日新館の教育は特徴的で、子供たちは「什の掟」と呼ばれる精神の基に武士道を身につけました。白虎隊士たちが学んだ学校もここです。今は再建され、博物館となっており、また合宿場としても用いられています。

●旧滝沢本陣

 会津戦争時に会津藩が本陣をおいた場所です。白虎隊もここから出陣しました。

 中には今も生々しく戦争時の弾丸の跡が残っています。その数の多さに当時の凄惨さを想い、思わず息を呑みました。

●松平家墓所の入り口

 現在、会津歴代藩主は山の中に眠っています。お参りをしに行こうかと思いましたがあまりの山道に断念しました・・・。体力があれば次回リベンジしたい。


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次回は高知坂本龍馬巡り記をアップしますね★

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